英語力をつけるために~レアリアとしてのキリスト教
前回の記事を続編アリにしておいて、年をまたいでしまいました。
英語学習におけるレアリア~背景知識~の大切さについて、話してましたが。
レアリアが必要な理由は、話す自分も聞く相手方も、どちらも感情を持ち思考する、生身の人間であることにつきると思います。
「英語や英会話は仕事の道具であり技術」と割り切って臨む学習アプローチを必ずしも否定はしませんが、その道具を使って反応や効果を確かめる先にいる相手もまた、アナタやワタクシと同じく長い時間を費やして、現在の自分を形成しているわけです。
母国語であろうと外国語であろうと、パターン化されたフレーズや用語を丸暗記したうえでこちらのやりたいようにアウトプットしてみることも、経験すべき大事な学習プロセスであることは言うまでもありません。
しかし、いつまでも「英語は道具に過ぎない」とか言っていると、いつか相手への関心が薄れてしまい、どうしても自分の用件を済ますことに神経が集中してきがちです。
「こちらのポイントさえ伝わればいい」「なんだか高尚なことを言ってるようだが、要するにノーということだね」などと、自分に都合よく細部を切り捨て話を端折ってしまうのが、上手なコミュニケーションであると思うようになりやすいのです。
ビジネスシーンだけならそれでも通るかもしれませんが、自分の発した英語を受け取る相手はマシンではなく同じ生身の人間であることは、やはり忘れたくないもの。
レアリアの重要性を意識しながら外国語を学ぶことは、自分のためのみならず、ひいてはその言葉を使う世界に生きる相手の人格を認め、敬意を払うことにもつながるのです。
英語学習者として知っておきたいレアリアはいくらでもありますが、前回の記事の末尾でキリスト教を知ることの重要性に触れたので、その話をします。
レアリアの不足、それは英語学習者に終生つきまとう影。
英語の勉強をしていると、時々「ん?」というフレーズにぶつかって、いまひとつわかった感じがしないけど、そういうものだと思って丸暗記…ってことが結構ありますよね。
同じ「わからない」にしても、これが英単語なら、いかにスペルが長くて難しい単語であっても、自分なりに納得したおぼえ方を見つけることは、なんとかできるものです。
たとえば語源から追いかけてみたり、最後の手段としてゴロ合わせ(笑)に頼ったりと、それなりに自身で落としどころを見つけて、こうおぼえるという納得ずくのゴーサインを、脳内で出すことができると思うわけです。
英単語の場合、日本語と英語の「1対1」の関係を比較的作りやすいこともありますしね。
たとえば"Exodus"という単語をおぼえるとき、Exodus=「大脱出」ととりあえず規定して、自分なりのおぼえかたによって記憶していくことには、さほど違和感はないはず。
しかしこの語が「旧約聖書の脱ヘブライ記」に由来していることは、(そりゃ知っていたほうがよいに決まっていますが)たとえ知らなくても単語の意味そのもののおぼえるうえでは、それほどのストレスも溜まらないと思うわけです。
仮に単語の裏にある文化的・歴史的背景を端折ったとしても、なんとか記憶をつなぎとめておくことができますし、また二つ以上の異なる意味がある単語でもそのうちの一つを確実におぼえているだけで、心理的なストレスはずいぶんと和らぐものです。
しかしフレーズや英文表現の場合は、いかにやさしい単語で組み合わされた表現であっても、またなんとか丸覚えに成功したとしても、なんとなく消化不良感というか、しっくりこない感が残ったまま…ということがないでしょうか?
「グロービッシュ(Globish)」に思うこと。
某オリエンタルな(笑)ビジネス週刊誌が、今週号で「非ネイティブの英語術」という特集を組んでいるので、目を通してみました。
そのなかで「グロービッシュ(Globish)」について大きくとりあげていましたが、皆さんは「グロービッシュ」ってご存知でしたか?
「わずか1500語あれば英語が話せる」をうたい文句に、「ビジネスのためのランゲージ・ツール」として英語を使うアプローチのようです。
グロービッシュ - Wikipedia
Globish.com
このグロービッシュ以前にも、ずいぶん昔から、「一定語数の英単語だけを使って、すべてを平易に説明する」的なアプローチがいくつかありますよね。
ベーシック英語とか、Longmanの辞書のように2,000語程度で説明するとか…。
英語が外から強制される環境、ウラヤマシイですか?
最近のニュースでご存知の方も多いでしょうが、とある(笑)国内最大級のインターネット総合サービス企業が、トップの号令のもと、社内の公用語を英語とすることを決定したそうです。
会議は最終的に英語一本にしたいとのことで、社員は英語ができないと、何が意思決定されたのかよくわからん…となりかねないモヨウですね。
これまで「自分の人生において英語など無縁」と思ってやってきた社員にとっては、ある日突然の天からのお達しにより、その後の人生のかなりの部分が英語に左右される日がやってきたわけですな。
ま、ここは「中国語でなくてよかった…」と胸をなで下ろすくらいの(笑)ココロの余裕が欲しいところです。
英語なら少なくとも、中学・高校で多少なりともかじっているわけですし、中国語をゼロから学んでしかも仕事で使いこなせって言われるよりは、条件的にずっと良くないですか?
でも、最近は中国資本による日本企業の買収なんかの話もチラホラ聞きますからね~。
別に大企業に限らず、社内公用語を中国語にする会社も、そう遠くないうちに出てくる気がしますけど。
GW中に英語・英会話の勉強をしようと思っている方への、2010年的追記。
ふとカレンダーをみるともう4月の終わり、GWに入ろうかという時期です。
今年ももう3分の1が終わっちゃいましたね…こっちはもういい歳なんで、月日の流れる速さにもう、ため息をつくばかりです。
ということで、このブログでGWの時期にはどんなこと書いてたっけ?とさかのぼってみたら、こんなこと書いてました。
GW中はひとつ英語の勉強でも…と奇特にも思っている方に(2008年版)。
GW中はひとつ英語の勉強でも、と奇特にも(笑)思ってる方に。
身体的・精神的休息がpriorityという人を除いて、まとまった休みができたから英語・英会話でもやってみよう…というキトクなことを考える人がもしいるなら、その期間でひとまとまり、なにか完結できるようなことをイベント的にやってみたらどうですか?って趣旨のことを、このときは書いてますね。
まぁ言いたいことの趣旨としては変わらずですが、「イヤイヤ日本も激動期、のんびり遊んでいる場合ちゃう。自己啓発だ、英語やろう」と思っている方のために、多少つけ加えて書いときます。
英語・英会話の本選びは、技術やノウハウを「一つだけ盗む」つもりで。
久しぶりに大型書店の英語・英会話コーナーに行ってみましたが、相変わらず目まいがするくらいのボリュームです。
最近ますます発行が増えてるんじゃないの?ってくらいに、そのノウハウも実に多種多様。
まぁ売れ行きを考えたら当たり前なんでしょうけど、やはりあいも変わらず「安・近・短」路線が、圧倒的に優勢のようです。
タイトルだけみると、「8秒」と打った本がありましたが、これが現時点で最短では(笑)。
「1分間」というのも目につきましたね。
いまや「3ヶ月や半年で身につけましょう」って言ったら、なにノンキなことを!と叱られそうな勢いです。
皆さんそんなに急いで、一体どれだけ忙しいんだか…。
何十年も腰を据えて気長にガンバリましょう…ってこのブログのようなコンセプトの本は、目に入った限りではありませんでした。
当然ですかね。秒単位で勉強するこのご時世に、ちょっと勝ち目はアリマセン。
日本語をひととおり聞いて・話して・読んで・書いてと、自在に扱えるようになるまでにかかった年数の長さを素直に思い返してみても、はじめて触れる異文化圏の単語やフレーズ・文章を、そんなに短い時間で思い通りに使いこなせるわけないと思うんですが。
やっぱり「大脳生理学」とか「科学的メソッド」とかでドンと迫られてしまうと、なんというか魔法のような方法がどこかにあって、それが私の中の未知なるパワーをすべてを引き出してくれる…などと夢見てしまうんでしょうね。
ワタクシもこれまでの数十年はサンザン英語・英会話の本を買い込んできましたので、そのヘンの心理はよくわかります。
ただねぇ、出張や旅行の数日間だけ持てばOKっていうのならともかく、外国語をそれなりに身につけようと思っているならば、やっぱりあんまりセカセカと急がないほうがいいと思うんですよ。
上の本のように、「できるだけ急げ!人生は短いぞ!」って真逆のコンセプトを主張する方も世には多いんで、そのあたりはいま実際に勉強されてる皆さんの判断ひとつになりますが。
ただ数十年の経験から言わせてもらえば、ふつうの人にとって「急いで身につけたものは、そのぶん急速に溶けてなくなる」んですよ。
英語力の向上に向けた、2010年的当ブログメッセージはこの3つ。
2010年スタートまで、あと数日。
月日の経つのは早いモンだ…とシミジミしている、そこのアナタ。
英語と英会話の勉強、自分なりのペースで、なんとか続いていますか?
当ブログ「そこツボ英語日記」も、はや4年目に突入です。
当初の意気込みはどこへやら、今では月に1~2回の更新がやっとの情けないアリサマですが。
しかしそれでも書き続けていますし、目が見えてキーボードが打てて、サーバー代が払える限りは一生更新を続けたいと思っています。
かように力む理由は、この「英語が上手くなりたければ、とにかく続けること。」というのが、当ブログのコア・メッセージだからです。
だからそう主張している本人が、メッセージ発信元のブログの更新を止めるようでは言行不一致、シャレになりまへん。
・英語・英会話の学習に、明確な目的意識なんぞなくていい。
・無理に楽しんで勉強しなくたっていい。
・3ヶ月や半年でペラペラなんて、もちろん目指す必要もない。
(…まぁ個々の事情もあることですし、やるぶんには構いませんけどね)
ただ要するに、「それらは英語が上手くなるためのrequirementsではない」ということが言いたいわけです。
多少のスピードや効率性のアップ、学習の要領が悪く回り道をすることなど、長い人生で見れば「誤差の範囲」と言っていいくらいで。
半年でペラペラになる方法を見つけたとしても、3~5年後、あるいは10年後にはどうなっているかについて、考えてみたことがありますか。
止めたら元のモクアミで、あなたの脳は短期集中トレーンングで得たものを、キレイさっぱり忘れ去ってくれることでしょう。
このことは過去に当ブログで何度も書いてますし、また別に2010年に限った話でもないですけどね。
そうであっても一番大事なことと思っていますし、当ブログからの2010年的メッセージの一発目としてはやはり外せません。
「英語学習を続けること、それ自体が英語上達の奥義。」なのです…。
英語・英会話上達のための、脳とカラダのスタミナのつけ方。
ブログランキングにのってるような英語学習の専門ブログよりも、ジャンルを特定していない一般ブログなどで、たまに外国語や英語についての思いをフッと語るような、肩にあまり力が入ってない感じのエントリーを息抜きで読むほうが、ワタクシはわりと好きです。
さて、そんな風にときどき読んでいる渡辺千賀さんのブログのエントリーで、「翻訳・通訳ってヤツがどんだけ難しいか」ということがうまく書かれていて、「そうだよなァ」と思いましたので、ご紹介しときます。
翻訳・通訳は難しい(On Off and Beyond)
渡辺さんはバリバリのバイリンガルだと思いますが、彼女にしてこうです。
と言うより、翻訳とか通訳にまともに向き合おうとすると、みんなほぼ同じ結論にたどりつくんじゃないかと。
もちろん英語や英会話を勉強するヒトがみんな、通訳者や翻訳者を目指すわけではないのですが。
ただ英語・英会話がうまくなりたいという学習者のなかには、ばくぜんと自分の心の中に、同時通訳者やガイド通訳や翻訳者を「ひとつの到達像・完成モデル」としてイメージする方も多いと思うのです。
実際にそのための訓練をするかは、また別の話として。
リスニング、「一言一句を聴く」よりは「相手の話を聞く」つもりで。
本日はリスニングの勉強について、ちょっと思っているところを。
「英単語やフレーズをもらさず正しく聴き取ろう」とあせる気持ちの力みをフッとぬいて、「このひとは何を伝えようとしているのだろう」というメッセージを探りとる気持ちで話を聞くことが、大事だと思うわけです。
相手の伝えたいメッセージのコアを拾い上げることに、自分の意識を集めていく感じ。
まぁ英語圏の人たちはたいていの場合、一番言いたいことを最初に口にするはずですので。
日本語の場合は、最後まで聞かないと結論がよくわからなかったりしますけどね。
なので相手の話し始めには特に注意して、その人がメッセージしたことをちゃんとつかまえにいく。
これがちゃんとできたら、自分のなかでまずはヨシとします。
そのあとは、そう考えた「理由」とか「状況の説明」へと話が細かく下りていくわけですが…。
英語は愛。英会話は祈り。厳しいなかにも、緩やさを。
いや…毎年のハナシでつぶやいてもしょうがないことなんですが、暑いですな。
ワタクシは田舎住まいなもので関東・近畿圏に比べると相当マシなんでしょうけど、それでも暑い。
たしか2年くらい前に、暑い時期の英語・英会話の勉強について書いたよな…と思って過去記事を見てたら、やっぱりありました。
いや~書いた本人も、何を書いたかもうすっかり忘れてまして。
他人が書いた文章を読むような新鮮な気持ちで、読み返しましたけど(笑)。
ま、あらためて特につけ加えることも、訂正することもないですね。
まんま、今年の夏も同じメッセージとしておきます。
それってこの2年間で、ワタクシが何も進歩してないことを意味するのかしらん…とチラッと思ったりもしますが、そこは気にしないことにします。
要するに「夏は無理に勉強せず、もしやるなら朝だけにしておきましょう」ということですが、これから猛暑日も続くことですし、未読の方はよろしければ。
・猛暑の季節に、英語を効率的に学ぶ方法(1)。
・猛暑の季節に、英語を効率的に学ぶ方法(2)。
・猛暑の季節に、英語を効率的に学ぶ方法(3)。
まぁ暑い時期は、冷たいビールといっしょにそば・そうめんなどをツルツルすすっているだけで、個人的にはヒジョーに幸せを感じたりしているわけですが。
最近そんなふうに一杯やりつつ、パラパラとつまみ読みする本の一冊に「斎藤孝のざっくり!世界史」(斎藤孝 著、祥伝社)がありまして。
タイトルどおり、おおまかな世界史観を社会人の皆さんにもわかりやすく解説…という内容なのですが、この本のなかでちょっとオヤッと思ったものに、イスラム教がなぜここまで世界的に広まったか(信者数は世界で13億人超とのこと)についての考察のくだりがありました。
もちろん理由はいろいろ複合的なのでしょうけど、この本では、世界的な普及にいたった背景のひとつとして、広い意味でイスラム教が「寛容な」宗教である点を指摘しています。
ムスリムの戒律も、一般の日本人は「必ず守らなくてはならない規律」的な厳しいイメージを持っているが、たとえば手術中の医者とか手の離せないことをしている人の場合、それが終わってから礼拝すればよいとか、厳しさのなかにも配慮があったりするとのことです。
またイスラム教といえば「断食」が有名ですが、これも子供や妊婦、病気や体力の衰えた人、日中やむなく重労働をしなくてはならない人などは、断食の義務が免除されるとのこと。
かように「厳しさのなかにも緩さがある」ことがイスラムの戒律の特長であり、イスラム教が今日に至るまで世界に広く受け入れられた理由の一端でもある、と斎藤さんは指摘されています。
う~ん、なるホド。世の中ホントに、知らないことばかりだ。
で、このハナシを枕に、いつものように英語・英会話ワールドに方向転換しますが…。
英語・英会話の勉強、「毎日歯を磨くような気持ち」で出来たら理想的。
先頃、たまたまTVで見ていたテレビ番組ですが、テーマが「時間」で考えさせられるものがありました。
「一日は24時間しかない」「時間は誰にとっても平等」というのが真実であるその一方で、いったんその時間が一人一人の中に降りてきたら、それはある程度「伸び縮みするもの」に変わるんじゃないかと(番組のゲスト教授が「心的時間」と呼んでいましたが)。
たしかに子供の頃は一日がすごく長く感じて、歳をとるほどにあっという間に日がくれるように思うのは、いったいナゼなのか。
イヤな時間は時計が止まったかと思うほどに進まないのに、旅行中とか誰かと一緒に楽しく過ごす時間は、ナゼ飛ぶように過ぎてしまうのか…誰しもが経験することですよね。
気になったのでネットをウロウロしてみましたが、「ジャネの法則」とか「相対性理論」とかも含めて、諸説あるんですね。
「新しい情報量の処理が多いと、時間を長く感じる」という趣旨の説明は、以下引用にもありますが、よく見かけました。
人間が感じる時間の長さは、新しい情報の量に比例する(Software Development ITmedia オルタナティブ・ブログ)
ま、いずれにしてもワレワレ英語・英会話の学習者にとって大事なのは、「客観的な長さの時間」よりは、上で言うところの「心的時間」のほうですよね。
おそらく勉強をはじめた瞬間に「客観的長さの時間」が「心的時間」に自動的にスイッチして、その人のなかでどれくらい時間が伸びたり縮んだりするかで、得られる成果もずいぶんと変わってくる…ということなんでしょう。
学習スケジュールをキチッと立てることの重要性を説く英語本や、忙しいなかでいかに学習時間をひねり出すかのハウツーを説くタイムマネジメント本が、もう山ほどあるわけですが。
でもこういう類の本は、「心的時間」なるものは実質的に無視せざるを得ないんでしょうね。あまりに個別的な世界だし。
「週四日、22:00~23:00」などと学習スケジュールを決めて机に向かうとしても、その心的時間の質は日によって、また気持ちのありかたによっても、ずいぶんと中味が異なってくる…ということですもんね。
その固定された学習時間帯が、英語・英会話の上達に向けて「ノッた時間か、ノラない時間か」のどちらに振れているかで、得られる成果が変わってくること自体は、おそらく避けようがないんでしょう。
かといって、英語・英会話を勉強する気分になるまで机には向かわんぞ…とやってしまうと、今度は怠け心が顔をのぞかせて、いつまでたってもやらなかったりする。
だからして、まず机の前の椅子に意識して半ば強制的に座りましょう、それを続けることで習慣化して機械的に学習モードになっていきます…といったやり方も、よく知られているところです。
英語・英会話学習、専門家の言うことは最初から「話半分で」聞く。
センエツながら本日は、ワタクシの個人的な数十年の英語・英会話学習経験で身につけた上達の「奥義(笑)」のひとつを、ご披露しましょう。
それは「この地球上のあらゆる英語・英会話の専門家や大家がとなえる英語上達メソッドや英会話上達方法すべて、はじめっから話半分のスタンスで聞く」ということ。
「へぇ」と素直に感心して自分の学習スタイルに取り入れたりするのは、いいとこ自分の気持ち半分までにとどめる、という意味です。
それらのご高説に接する以前に、前もってバリアを張るくらいで、スタンスとしてはちょうどいいや…と思っているわけなのですよ。
「盲目的にひとつのメソッドを信じてついていく、英会話の勉強これだけ!というやり方を、自分は絶対しない」と、最初から自分の心の内でひっそりと宣言し、自分の中のルールにしておくことです。
もう世界的な言語学者であろうが、世界数十カ国で展開する外国語学校の創始者の理論であろうが、著名な同時通訳者の唱える方法であろうが、おかまいなし。
話を聞いたり本を読んだりする以前に「いいとこ半分くらいしか信用しないことにしてるんで、そこはよろしく」と決めて、ご高説に臨んでいるわけです。
ましてや巷の英会話学校や英語教材、そしてもちろん本ブログも含めて、自分以外の人間が「こうすれば英語はうまくなります」的な話をしていたら、聞く前から「参考にしたり取り入れたりするのは、2~3割でも多いくらい」と決めておくことです。
「ピンチはチャンス」のフレーズが招く、思考停止状態を警戒したい。
今日から4月ですね。
以前 「10月1日から気持ちも新たに、勉強をスタート!」とか、力まない。 でも書きましたが、少なくとも英語・英会話など外国語の勉強をするときは、特定の日を区切りとかイベント日としてあんまり意識しないほうがいいと、個人的には思ってるんですが。
「本日も、いつもと変わらない、いつもどおりの一日」として、そのいつもの一日にする勉強の質と量を上げていくアプローチを、ワタクシとしてはオススメしたいです。
ところで先ほど、たまたまテレビでとある企業の入社式のシーンを映していたのを聞き流していたら、「大変な時代の入社となったが、『ピンチはチャンスだ』と考え、皆さんには積極的に仕事に取り組んでいってほしい…うんぬん」と、社長が新入社員を前に訓辞を述べたとかいうニュースが流れてまして。
その瞬間、なんだかなつかしい気持ちにとらわれまして…この、「ピンチはチャンスだ」ってフレーズ、これまでよく耳にしたものですから。
さる数十年前、ワタクシが社会人デビューで営業マンとして配属されたとき、あのイヤな上司がよく口グセで言っていたなぁ…とかね。
ビジネス書でもいまだに、この手のフレーズで新入社員を焚きつける内容のものを、結構見かけますよね。
ワタクシも結構長い間、言われるまま・焚きつけられるままに、この「ピンチはチャンスだ」的発想を、疑いもせずそのまま受け入れてましたよ。
「ピンチに直面してもくじけずに、これをチャンスだと思って、最終的にプラスの結果にするようガンバロウ」みたいな。
さすがに歳を重ねてくると、多少見方もひねくれてきまして。
ま、現実にピンチに直面したときそうつぶやいて自分を鼓舞することは効果ゼロ、とまで言うつもりはありませんけど。
ただこの歳になると、「『ピンチはチャンス』じゃないだろ。『ピンチ』と『チャンス』はまったく別モンだろ、一緒くたにしちゃダメじゃん。」と思ってますね…。
英語・英会話、10年後のためにも「脳が喜ぶ場所」で勉強したい。
う~ん、3月です。
多くの企業が決算期というわけで、やれ「3月危機」だの「5月がヤマ」だのとバブル崩壊のときも聞いたようなフレーズが、またまた聞こえてきています。
大型の経済悪化ニュースが、この数ヶ月でさらにアドオンされそうな気配。
しかしそんな不況風が吹くなか、暖かい季節が日一日と近づいていることを生活の折々に感じることができるのは、個人的にはチョッと嬉しいですねぇ。
いいトシして何をつまらないことで…とお思いでしょうが、なにせワタクシ、雪国ド真ん中の暮らしなもので。
見渡す限りの白い雪景色に、絵の具がジワジワとにじんでいくように日の光の強まりや土の色が白色に混ざってくるこの時期って、ワリと好きなんですよ。
目先に個人的に変わったニュースが無くても、そしてなんの根拠がなくても、気持ち的に変化のはじまりを感じさせてくれるこの時期は、北国住まいにとってはただそれだけでなんとなく、明日に希望をもって向かいたい…と思わせてくれる効用があるわけです。
別に理詰めで考えた根拠が、「希望」や「楽観」を持つための必要条件ってわけじゃないでしょうからね。
景気だって、その瞬間を切り取ったなら、しょせんはつかみどころのない「気」に過ぎませんよね。
暖かい春がきて嬉しくなって、なんとなく理由も無く街に出て、サイフのひもが緩んだついでに買い物しちゃったりする人が、もっともっと増えてくれればいいんですけどね。
たぶん、あんまり室内でパソコンばっかり見ていちゃイケナイんでしょうねぇ。
春を感じたらなるべく外に出て、その空気感をカラダにしみこませないといけないなぁ…と思ってます。
さて、英語・英会話学習のブログなんで、そっちに話を持っていきますが。
個人的にこの数十年間、いったい主にどこで英語を勉強してきたのか?を思い返してみると、なんだか机の前でちゃんと教科書を広げて…という時間が、割と少なかったような気がしてなりません。
どちらかというと、思い浮かんでくるのは、どこか家の外の景色。
コーヒーショップの片隅とか、通勤電車の中とか、学生時代だったら食堂の隅っことか…。
英語・英会話の実力、「自他共に」の前に「まず自分が認める」気持ちを。
う~ん、予想されたことではありますが、巷では不景気風が吹きまくりですね。
どこぞの名門企業が倒産したとか、会社更生法を申請したとかいうニュースが、一日1~2件のペースで新聞の見出しを飾っています。
金融危機から実体経済の危機への移行というやつを、これでもか!といわんばかりに、毎日見せつけられていますが…。
一個人の英語学習者としては、こういうときは家でおとなしく英会話のテキストを広げて勉強でもしているのが、いちばん有意義な時間の使い方のような気がしてきますね。
結局のところ、本やネットでの独学が、一番コストもかからないでしょうから。
…と言っておきながら、ワタクシ個人はこのところ細々とやることも多く、実は2月に入ってから英語・英会話の勉強らしきことを何もしていません。
ただ、ミエをはっているようで何ですが(笑)、そのせいで英語力が落ちた、力がおとろえた…という実感はほとんどありません。
…いや、わかってます。たぶんそれは、カンチガイです。
そんな都合の良い話はないので、定点観測で正確に測ったら、やっていなかった分だけキッチリと、英語・英会話への感度は鈍っていることでしょう。
ただ「気持ちの持ちよう」として、かりに落ちていたにせよもとのレベルまで戻すのがそう難しくない…という妙な落ち着きというか、確信のようなものがココロの内にあることをはっきりと感じるわけです。
とくに社会人の英語・英会話学習は、勉強したくともまとまった時間がなかなかとれないことも多いですよね。
もちろん細切れのスキマ時間を有効活用して…という学習アプローチは、追求してしかるべきでしょう。
しかし、なんだかんだで物理的に(あるいは心理的に)その細切れ時間すらとれないときだって、必ずあるわけで。
そういった細切れ時間すらとるのがシンドイときに、ある程度勉強しない期間が続いたとしても、力が落ちないようにしておく必要もあると思うわけです。
正しく言えば、実際にTOEICなどでスコア測定してみるとやはり数十点とか落ちているにせよ、本人の感覚としては落ちていない、動じない、いつでもとりかえせるぜ…といった類の「妙な自信」を身につけておくことって、案外ヨイことではないのか?ということです(そういやTOEICって、数十点程度のスコアのアップダウンを実力の変化とはみなしませんね)。
「楽しんで英語を学ぼう」とすると、真の楽しみから遠ざかる。
よく、「英語・英会話の勉強は楽しんでやろう」といいますよね。
もちろん悪いとまではいいませんが、「楽しまないでやったほうが、いいんじゃない?」と、内心思うことも多いです。
「楽しむ」のは「苦しむ」のと同一線上にある、絶えず変化する「感情」の話ですよね。
いつもいつも勉強のたびに楽しむことなんて、普通はなかなかできませんし。
逆に、勉強することがそういつもいつもツライはずもない、とも思います。
数回に一回、わるくても数十回に一回くらいは「お、この単語はこういう意味があったのか、へぇ~」とか「あ、このフレーズ、あのとき使っていればTPO的にドンピシャだったな」とか、いわゆる知的好奇心が刺激されて、気持ちが震えるような瞬間だって、必ずあるはずです。
ですので、参考書や問題集を目の前にひろげるときに、振れ幅のある「感情」というものを羅針盤にしてしまうと、その日の体調や出来事によって感情の波が揺らされるたびに、学習成果も何かとほんろうされてしまうわけです。
これまでの記事でもたびたび書いていますが、ワタクシは英語・英会話の上達においては「いかに長く勉強を続けるかがもっとも大事、とにもかくにも続けてさえいれば、それなりにうまくなるはずだ。しかしただ続けるだけのことこそが、実はもっとも難しい」との立場をとっています。
というか、振り返ってみても、自分がそれなりに英語が上達した理由を、それ以外のことにうまく見出すことが、いまだに出来ていないので。
実体験したアプローチにこだわりすぎの面も、あるかもしれませんが。
だいたいTOEICで高得点をとったり、英検1級に受かったところで、それらが英語を自在に使いこなすための指標としてはいかにはかなく頼りないか、実は取得した当の本人たちこそ、口にこそ出さないものの内心でいつも感じているはずですよ。
イヤ、証拠はなにもありませんが、そう思います(笑)。
中にはこれでオッケー!という人たちもいるんでしょうけど、それはそこが自分の限界点、ゴールだと、宣言しているようなものでして。
英語・英会話力の上達を目指すヒトって、ハタからみたらすでにかなりの熟練者に見えたとしても、たいていは自分なりに確信がもてる羅針盤やモノサシのようなものを、止むことなく無意識に探しまわっているものです。
え~、話を戻して。
ですから、英語・英会話の勉強を長く続けるためには、心の持ちようとして、別に楽しんで勉強することをそう意識する必要はないわけです。
むしろ何も考えず、自動的に・習慣的に・ナニも考えずにタンタンとやるほうが、何年も続けるという点では長持ちするだろう…と思うわけです。
「楽しくやるほうがいいに決まっている」という方は、楽しいという感情のドライバーが無いときは、勉強を休まざるを得ませんからね。
でも外国語の学習は、どう工夫してみたところで、同じようなことの繰り返し、反復練習の世界からは逃れられないわけです。
この大変な時代、「2009年的」英語・英会話の上達アプローチを考察。
そろそろ、2008年もオシマイですね。イヤほんとに、大変な一年でした。
とくにサブプライム問題が日本にはっきりと爪痕を残し始めた10月頃からは、それ以前に比べて、世の中がまるで別景色のようでした。
ワタクシの住む地方都市では、ついこの間のクリスマスも、街ではジングルベルの音色なぞは、ほとんど聞こえずじまい。
商店街も、明るい音楽を流す元気すら、失っているように見えました。
まるで、2009年にやってくる大きな衝撃をひしひしと予期して、街全体が声もなく、立ちすくんでいるかのように感じます。
数日前には、「2009年3月まで、8万5千人もの非正規労働者が失職」との、政府見通しも出されましたね。
こうなると、明るく来年を語ろうとするほうが、無理ってもんです。
これまでの景気を引っ張ってきた自動車などの「輸出産業」と「円安」の両輪が、二つともドツボにはまってしまったわけですから、政府がどんな対策を打とうとも、少なくとも2009年の一年間だけではどうにもならないことは、ほぼ自明のことでしょう。
これが「全治三年」程度の浅い傷ですむのか、はたまた暗く長い長いトンネルの入り口に立っているのかはわかりませんが。
少なくとも、これから迎える2009年に回復のきざしを見出すことはほぼ無理、と言わざるを得ないようです。
TVや新聞では連日のように、「派遣切り」の特集が組まれていますね。
このブログを読んでいる方のなかにも、はからずも職を失われた人もいるかもしれません。
現在はまだ仕事に就いていても、来年以降の厳しい情勢が自分に及ぶかもしれないという「影」を、ひしひしと背中に感じている方も、きっといることでしょう。
また、必ずしも自分の心配だけでなく、家族や恋人・友人の動向を案じて、心を痛めている方も多くいることでしょう。
そんな年末、英語や英会話の勉強なんかにはとても身が入らん…という気分の社会人や、就職を控えた学生の方などがいるのは、無理からぬというか、当然と思います。
こういうときに「短期決戦で集中して効率よく勉強して、英語・英会話の実力をアップしよう」などとは、間違っても考えないことです。
頭の中が就職や生活など自分の人生のより大きなテーマに支配されがちな状況のときは、「短い時間で要領よく」というアプローチこそ、逆にもっとも非効率に作用します。
かりに、首尾よく短期で学習プログラムを終えたとしても、たとえばリストラなどの大きな衝撃が、学習を終えて間もないアナタを襲ったりすると、せっかく学んだことが長期記憶に移し替えられる前に、アタマの中からなにもかも吹き飛ばされてしまうことでしょう。
もっと悪ければ、ショックで英語の勉強どころか、なにもかも手につかなくなってしまう…ということだって、あるかもしれません。
そうなったら、精神的に立ち直る日がくるまでは、外国語の実力アップをはかろうなどとするのは、ザルで水をかきだすようなものです。
ではそんなときは、立ち直るまでは、英語・英会話の勉強など放り出してしまえばよいのでしょうか?
いずれ必ず学習を再開する…という内心の確信というか、強い信念をお持ちの方ならば、それでもよいかもしれません。
その場合は、以前 「挫折」じゃなく「中断」にすぎない、と言おう。 でも書きましたが、なにくわぬ顔でまた、学習を再開すればよいのです。
しかし普通のヒトにとっては、いったん遠ざかってしまうと、同じところにもう一度もどってくるというのはなかなか大変で、しかもエネルギーを要するものです。
したがって、勉強を完全に放り出してしまうのも、これまで使った時間を考えれば、やはりもったいないでしょう…と言いたくなります。
じゃあ、英語・英会話の勉強が手につかないような精神状態 -おそらくはこれからやってくる2009年の、とある時期のような- のときには、どうすればいいのか。
「英語モードへの切り替え」「英語脳へのスイッチ」を、警戒する理由。
以前も似たようなテーマで書いたような気が強くしますが(笑)、ま、なるべくかぶらないように気をつけて書きます。
たとえば英会話の勉強をしていて、「あ~、英語がペラペラとしゃべれるようになりたいな…」などと思っている人はみな、しゃべりたい内容それ自体を、自分のなかにたくさん抱えている人なのでしょうか。
それとも普段はまったく無口な人でも、ひそかに同じように思っていたりするのでしょうか。
時々ふと、そんなことを思うことがあります。
ふだん無口な人は、日本語で口数が少ないのだから、英会話がうまくなったとしても、寡黙なままでいるのが自然体というか、それが本来あるべき姿のはず。
英語でしゃべっても、当然ほとんど単語の羅列というか、口数はやはり少ないはずだろう…などと、思うわけです。
じゃあ、なんのために苦労して英会話なんか勉強したの?と思われるかもしれませんが、無目的で単に勉強したいからするだけ、英単語帳を眺めているだけでなんか落ち着く…ということでも、全然OKですよね。
そういう人が果たしてどれくらいいるかは、別にしても。
たまに「英語を話すときは、頭のスイッチを英語モードに切り替えて、英語人格で話そう」的なことを言う人がいますが、それは好意的に見ても、自分自身錯覚を起こしているというか、勘違いしていることに気づいていないんじゃないか…と、思うわけです。
だいいち、異なる言語ごとにいちいち人格を切り替えろって、多重人格のススメか?と、ついツッコミたくなってしまいます。
日本人との間では「ふーん」とか「そうなの」としかふだん言わない人が、英語だと急にぺらぺらしゃべりだすのは、はたから見ていてもちょっとヘンというか、本人としても何かしら無理をしている状態なのは確かですよね…。
英語・英会話学習、「失敗」は恐れることで真の価値が得られるもの。
10月も半ばに差しかかりましたが、いやはや世の中がすごいことになってますねぇ。
「東証暴落」という新聞の見出し、このあと半年くらいはもう何回か見ることになるんでしょうね。
「株はやっていないし、自分には関係ない」とばかりに、英単語の暗記にいそしんでいる(笑)そこのアナタ。
実体経済、つまり我々の生活圏への影響は、数ヶ月から半年遅れでジワジワやってきますから。
いまは風邪のひきはじめみたいなモンです。
あなたの勤めている会社だって、経営陣や経理部の資金調達係のヒトが社員にわからぬようこっそりと、顔色を変えて走り回っているかもしれませんよ(などと、おどかしたりして)。
本格的に熱を出して寝込むのは、欧米企業の12月決算・日本企業の3月決算を締めてからですから。
そこに、いつやるのかよくわからない総選挙が入ってきそうで、どっちの政党が勝つにせよ、モロモロ混乱も避けられない感じです。
世情的には、落ち着いて気分良く年の瀬を迎えるというわけには、とてもいかないようですね…。
ところでこのサブプライム・ローン問題(Subprime loan crisis)、ワタクシ個人的にテレビのニュースを見ながらウーンと思ってしまうのは、少なくとも1年前くらいからはビジネス誌その他で、結構な警告がでていたはずなんですよね。
米国の不動産バブルがいつはじけるか?というテーマのからみで、「サブプライム・ローンはかくかくしかじかのリスクがあって、はじけたら大変なことになる…」的なコメントや論調は、ずいぶん見かけたもんです。
いつも行くカレー屋さんに、なぜかNewsweekとか日経ビジネスとかのビジネス雑誌がたくさんあって、そんな論調の記事を流し読みしながらカレーを食べていたんで、たまたまよくおぼえているんですけど。
だから現実に、アメリカの五指に入る大手証券会社が一瞬でつぶれたり、株価がどーんと千円ほど下がったりという光景を目の当たりにすると、ホントに強く思うわけですよ。
「あー、人間ってやっぱり、自分自身が失敗しないと、その痛みがわからないものなんだな、人の失敗例や先々のリスクを説かれたところであまり効果はないんだな」って。
自分が失敗する番が回ってきて、手ひどい痛みとして心と体にそれを刻み込まない限り、おそらく失敗の本質って永遠にわからないものなんだなって、思ったわけです。
英語・英会話、広大な沼を横切って向こう岸に渡る自分の姿をイメージ。
「英語力」・「英会話」について、自分の血肉・セールスポイント・武器となるように、これを一生涯使えるスキルとして伸ばしたい…と、もし今のアナタが考えているのならば。
それはまるで、目の前に広がる広大な沼を進み、向こう岸に渡ろうとするようなものです。
ま、ちょっと目を閉じて、イメージしてみてください。
あなたは、なぜかいま、沼地の前にひとり、サファリルックで立っています。
あたりには、人の気配もありません。とても静かです。
目の前には、広大な沼地が、茫漠とひろがっています。
沼の前には、「英語沼」と沼の名前が大きくかかれた看板が、ポツンと立っています。
目線を遠くにやると、はるか向こうに、かすかにポツンと陸地が見えます。
そこが、あなたの目指す目的地(おそらくは、桃源郷のはず?)です。
たどりつけばきっと、ゴチソウもお風呂も、そして休息用の柔らかいベッドもあることでしょう。
しかし、どうやら沼を歩いて横断する以外に、そこへたどり着く方法はなさそうです。
「一ヶ月でペラペラになる秘訣号」と側面に派手な色文字で名前が書かれたボートが一隻ありますが、残念なことによく見ると、ボートの底がそれこそ、ペラペラの材質でできているようです。
これでは、向こう岸に着く前に間違いなく、沈没してしまうことでしょう。
パッと見はとても立派なボートなのに、惜しいことに、使えそうにありません。
幸いにも、沼の底は浅そうです。
せいぜい半身までつかれば、なんとか歩いて渡れそうです。
しかし、ごく一部に底が身の丈より深くなっているところもありそうですし、注意深くソロソロと進む必要があります。
また、立ち止まって休憩を入れたりして体力配分も考えないと、たどり着く前に疲れ切ってしまいそうです。
途中で水を飲んだり、カロリーメイトくらいはかじったりする必要も、ありそうですね。
万一、沼の深いところに足をとられたら、落ち着いて泥の中から足を引き抜く必要があります。
アナタは体力の消耗も計算に入れ、冷静な判断のもと、そのピンチを脱出しなければなりません。
アナタはぬかるみをゆっくり進みながら、着くまでの時間・歩くペースの配分・休憩の入れ方・水分や栄養の補給ペース・トラブルに陥ったときの対処法など、色々なことについて頭の中で一生懸命考えながらも、ひたすら少しづつゆっくりと、向こう岸を目指します。
…歩き続けてしばらくたった今、目的地は、さっきよりほんの少し、見え方がはっきりしてきたような気がします。
しかしまだ到着までは、ずいぶんとかかりそうです。
歩くスピードをもっとあげたい気もしますが、もし途中で疲れて動けなくなってしまっては、最悪です。
それに引き返すつもりなら、今ならばまだ、間に合うかもしれません。
しかしこのペースでいけば、沼を渡りきって必ず、目的地に到着できるような気がします。
現に、さっき出発したときより、視界にある目的地はその像をクリアに結び、広がっているのですから。
それに引き返したところで、また沼地を見つめる毎日が待っているだけです。
「向こうの目的地には何があるのだろう、楽しそうだな…」と、空想するだけの毎日が。
アナタは、ほんの少し考えた後、腰まで沼につかったまま、ふたたび目的地を目指してまたソロソロと歩き始めます…。
英語・英会話の勉強、得意分野をつくることの「デメリット」も意識する。
英語・英会話に限った話ではありませんが、語学の学習や習いごとなどを始めるときに、「まず得意な分野をひとつ作って、そこで自信をつけてから次に拡げていこう」的なアプローチがありますよね。
たとえば、英会話をはじめたばかりの会社員が、「オフィス英語」「ビジネス英会話」だけに絞って、一生懸命に勉強するような。
あるいは、英文科の学生が原書で小説を読み、ひたすら読後レポートを書くことに専念するような。
はたまた、TOEICで前回以上の高いスコアを出すことを目標に、ひたすらTOEICの問題集を解きまくり、模擬試験も受けまくるような。
そんな感じで、「ある一定の年月なり期間なり、そればっかりを集中してやる」という学習スタイルがあるわけです。
ある一定の限られたフィールドで、同じような表現やパターンに何度も出くわしながら集中的に学ぶことによって、脳もカラダもだんだんとその状態に慣れてくると同時に、やがてそれが「得意分野」へと成長し自信がつく。
かりに知らない単語や表現が出てきたとしても、得意分野の範囲内でのことならば、ある程度は心の余裕をもって対処できるようにもなる。
このような「心理的プラス効果」も見込めるためか、「英語・英会話ビギナーは、まずは得意なジャンルを一つや二つは作ろう!」というやり方を勧める学習本や教材を、わりとよく見かけるように思います。
ま、これはこれで、初心者向けの学習アプローチとしては、なんら間違っていません。
なんであれ、自信が持てる分野があること自体は、よいことです。
ちょっとずつ色々とかじってはみたものの、自信が持てそうなことが何もないまま時間だけがすぎ、そのうち勉強がイヤになって、すっかり遠ざかってしまった…というよりは、そりゃはるかに有益でしょう。
ただワタクシが思うには、「ある程度自信が持てる得意分野をつくりあげた、その後」の扱い方がなかなかやっかいだ、ということです…。
英語・英会話力アップに向けた当ブログのメッセージ、結局このひとつだけ。
この「そこツボ!」日記、英語・英会話の学習者に少しでもお役に立ちそうな小ネタを記そう…という思いで、およそ1年半前にスタートしたのですが。
しかしそろそろ、「どのようなテーマですでに書いていて、どのネタはまだ書いていないのか」ということが、書いている当の本人もわからなくなりつつあります(笑)。
バックナンバーを丹念に読み返せばよいのでしょうが、それもちょっとツライ分量になってきました。
ま、同じようなことをかたちを変えて、何度でもしつこく書く…というのも、いま学んでいる立場の人にとって、それはそれなりに有用な気もします。
別に書く前の言い訳を、前フリで述べているわけでは…あります(笑)。
実際、英語・英会話に限らず外国語を身につけるためには、細かなテクニックをたくさん知っていればいるほどうまくなる、というよりは、シンプルないくつかの原則(自分なりのルール、ですかね)にそって、ただコツコツとこなしていくほうがオススメ。あるときはルーティンで、あるときは気のおもむくまま、自分なりに学習の変化をつけながら。
半年でマスター!とリキむよりは、そっちのほうが最終的にはやっぱりうまくなる、と思いますね。
そして、自分の味方につけるべきものはただひとつ、「時間」です。
うまくなりたければ、絶対に欠かせない、別の言い方をすればこれさえあれば、他に障害があろうと最終的には目的を果たせる、英語・英会話力上達のための超強力な武器。
それが「時間」。
このことさえわかっていれば、あとは枝葉末節の問題…とまでは言いませんけど、少なくとも致命的に重要な問題にはならないですよ。
語学の話に限らないかもしれませんが、理屈のうえでは仮にたっぷりとした時間があるならば、何が学習における「近道」で何が「回り道」ということは、問題にはならないはずですよね。
考える順番が逆のヒトが多いんですよ。
「時間がないし、3ヶ月で英会話が話せるようになる方法は何かないかな」じゃなくて、「英会話が話せるようになるための時間を、忙しい中でどうやってつくっていこうか」というところから考えを組み立てていくほうが、真っ当だと思うわけです。
外国語を身につけたいのなら、本質的に必要なものは、「いつか必ずうまくなりたい、という思い」と「時間管理」の方法論だけだ…というのが、長いこと英語・英会話の勉強をしてきているワタクシなりの結論というか、ひとつの確信です。
このブログは、それを手を替え品を替え、あちこちの方向からメッセージしているだけに過ぎないのかもしれません。
ワタクシ、世間であふれている時間管理術のように、5分10分もムダにしないで有効活用…というキツキツのやり方が、性格的にもダメなのですが。
ただそれでも、いつもいつも口を半開きにしてボーッと時間をつぶしているよりは、「ちょっと空いている時間ができたから、ネットで英語のサイトでもサーフしよう。このDVDはあらすじをもう知っているから、字幕無しで見てみよう」程度には、英語・英会話を日々の時間のなかで意識しているほうが、そのぶん確実にうまくなっていくことは確かだ、と思うのです…。
洋画DVDで英語を学ぶなら、特典の「監督音声解説」を聴こう。
英語・英会話の勉強をかねて、洋画のDVDをsubtitle(字幕)無しモードにして見ている方、たくさんいますよね。
ワタクシも機会があればやるようにしてますが、見ている途中で聴き取れなかったセリフがいくつか積み重なってくると、どうしても気になってしまって、その後のストーリー展開を追うのにも、いまひとつ身が入らなくなってしまいがちです。
で、結局ガマンできなくなってモードを元に戻し、英語や日本語の字幕を画面上に復活させて「あぁ、こういう意味か」と確認し、納得したはいいものの。
また字幕ナシモードに戻すのがつい面倒くさくなって、字幕を出したまま最後までそのまま見てしまったりします。
これじゃ、意味ないのですが。
ただワタクシ、DVDレコーダの前で同じような状態に陥っている学習者の方は、きっと全国にたくさんいるはず…ともにらんでいるのですが(笑)。
ま、それはともかく、この週末は「The Bourne Ultimatum」をレンタルしてきました。
映画館でも見たんですが、細かいところをもう一度見たくなりまして。
この作品、ご存知のとおり、人間離れした強さのボーンを演じるマット・ディモンが、追ったり追われたりで世界中をかけめぐる、シリーズ三部作のラストです。
で、字幕を出したりひっこめたりしながら本編を見ていたんですが、ふとBONUS(特典)についていたFeature Commentary with Director Paul Greengrass(ポール・グリーングラス監督による音声解説)に目がとまって。
日本語字幕を出して見るともなく見ていたら、これが面白かったんですわ。
面白いというのは、コンテンツとしてはモチロンのこと、英語のリスニング・英語表現チェックのための「教材」としても、です。
正直なところ、映画本編の俳優のセリフを追うよりも興味ぶかく、監督の話しぶりを追うことができました。
これは個人的には、意外な発見でした。
英語学習という意味では、「監督のコメンタリー」が侮れないというか、本編を聴くよりもむしろ効果的なのでは?とすら、思ったことがです。
「なぜだろう?」と、考えてみたんですが。
英語・英会話学習、進歩が自覚できなくて悩んでいるときの過ごし方(2)。
前回は五月病にかこつけて、誰にも訪れる「英語・英会話の学習にダレてきて、新鮮な感動が薄れてくるときの状態」について書きましたが、もう少しその続きを考えてみたいと思います。
なにも英語・英会話に限ったことではないのですが、つらつら考えるに、「はじめて接した時の新鮮な感動」というヤツを原動力・スタート地点にして、ひとつの物事を長く続けようとするのは、おそらく根本から間違っていますよね。
「はじめて××した時の感動を、忘れないようにしよう」といった類の文章は広告そのほかあちこちで見かけますが、後でこの「最初のときの感動」がどうだったかを思い出そうとしても、少なくともワタクシの場合は、あまりうまくいかないのですね。
たいていの場合思い出せるのは、「あの時は最初だったし、感動したよなぁ」という「感動したという事実」だけで、その時にどんな思いを抱いて、どれくらい感動したのかという「具体的な感動の内容」については、忘れてしまってどうにも思い出せない…ってことが、結構多いです。
かりにその時の感覚をよみがえらせることができたとしても、当時の新鮮な思いと今の追憶が、質感として同じなはずもないですし。
冷蔵庫で賞味期限が切れた生鮮食品を偶然見つけ、その匂いをかいでみて「あぁ、そうそう、コレこんな匂いだった」って、思い出すのに似ているんじゃないですかね。
匂いのほとんどが飛んじゃっていて、わずかな残り香(笑)によってね。
英会話学校なんかは、入学式とか入社式のシーズンにあわせてここぞとばかり「思い立った今がはじめるチャンス!」と売り込んできますが、こう考えてみると、「思い立ったその時に、勢いで新しい物事をはじめる」というのは、むしろ避けたほうがよい、と言いたいですね。
広告戦略で「ステーキを売らず、sizzleを売れ」というのがありますが、購買欲をあおる側はそれでいいとしても、買う側としてはsizzleを必要以上に重んじないようにする、ステーキそのものとsizzleを完全に同列に扱い同じ目線でみていく、という冷徹さが必要です。
「たった一ヶ月で英語がペラペラに!」的な広告コピーも、このsizzleを売り込んでいるわけですが、仮に百歩譲って「一ヵ月後にペラペラになったとしても、その後どうなるのか、どう変化していくのか?半年後は?3年後は?」については、売るほうも知らん顔だし、買うほうも思考を閉じてしまう…といった感がありますからね。
え、「そんな先のこと、わかるわけない」って?
じゃ、「一ヵ月後の英語ペラペラ状態」だって先のことなのに、そっちだけは(笑)なぜそんなに期待するんですか?
近い将来なら、確信が持てるんでしょうか?
英語・英会話に対する最初の新鮮な思いがいつか薄れ、毎日ごはんを食べて会社に向かうのと変わらない、ひとつのルーティンとなる時がいずれ必ずくるわけですから、むしろその時にどうするかをじっくり考える。
長い人生、英語・英会話に変わらず接していたいなら、おそらくそのほうが、ベターな判断ができるように思います。
で、もうひとつ思うのは…。
英語・英会話学習、進歩が自覚できなくて悩んでいる時の過ごし方(1)。
はやいもので5月ももう、半ばですねぇ。
この4月から「英語・英会話がうまくなってやろう!」とスタートした方や、あるいは「心機一転、再チャレンジだ!」とリスタートした方の中にも、「ちょっとダレてきた…」という感覚におちいっているヒトが、結構いらっしゃるんじゃないでしょうか。
5月といえば「五月病」だったのですが、最近はあまりこの言葉も、耳にしませんね。
一年中季節にかかわりなく、どこかしら「調子がでない」とか「やる気がしない」とかいう方が、全国的に増えてきている…ということなのでしょうか。
新しいことのやり始めというのは新鮮な気持ちで、何もかもが刺激として、作用しますからね。
水を吸うスポンジのように、知識を吸収していける点がメリットです。
ただ時間が経つにつれ、その状態にはいずれ必ず、慣れてくるわけで。
少なくとも「新鮮な驚き」というヤツをテコにして、たとえば英会話のリスニングとか、英単語の暗記とかを続けることは、だんだん難しくなってくる。
おぼえるべき内容は毎日違っていても、「ほぼ同じ時刻に机に向かって、いつものテキストをとりだして、昨夜におぼえ切れなかった単語の復習をして…」といった一連の動作がルーティン化してしまい、これまでの新鮮な刺激をテコにしていたアナタのやり方に、いわば逆方向から、ブレーキをかけてくるわけですね。
ただ、この段階では、「英語・英会話を身につけたい」というアナタのモチベーションそのものは、まだまだ健在なことが多いはず、なのですね。
「新しいことを学ぶ」という刺激に慣れてしまって、いわば学習効率が落ちかかっているだけで、「英語・英会話を身につけたい」というアナタの思いそのものは、いまだ失われていないわけです。
しかし、この状態をずっと続けていると、第二段階として「こんなことを続けていて、果たして目に見える成果なんて得られるんだろうか?単なる時間の浪費じゃないのか?」というように、心の内面にムクムクと、英語・英会話の世界に踏み込んでしまった自分の判断を責めたてる「疑念」のようなものが、必ず湧き出してきます。
そしてそのような「悪魔のささやき」が、内面でドンドンと、自分の主張を声高に叫ぶようになる。
心の中にいるもう一方のアナタの弁護人(笑)は、必死で防戦・反論に努めますが、どうにも立証が弱い。
なぜなら、アナタは英語・英会話の勉強をはじめてまだ日も浅く、「進歩が得られている」という確信を、自分自身にたいしてすら、説明できないからです。
かくして、アナタはあえなく「敗訴」(笑)…。
GW中はひとつ英語の勉強でも…と奇特にも思っている方に(2008年版)。
ゴールデン・ウィーク真っ盛りになってからこんな記事を書くのがおマヌケだというのは、一応わかってはおりますが。
ま、「久しぶりにまとまったお休みがとれた人が、奇特にも(または予定がないので仕方なく・笑)遊びにもいかず、英語・英会話でもやってみるか…と思ったとき」のためのネタということで、読み流していただければと思います。
ワタクシ同様、GWはどこにも行かず行けずで、PC画面の前…という同志の皆様に、捧げるコラムであります。
さて、一年前のGWに書いたエントリー(GW中はひとつ英語の勉強でも、と奇特にも(笑)思ってる方に。)を読み直してみたところ、このときは手頃な英会話フレーズ集などを一冊新たに買って、連休中にマスターしてみては?というお題で書いていました。
それでもこのGW、最大9日とか10日のまとまったお休みがとれるラッキーな方は、やっぱり旅行、それもどこぞの英語圏にでも旅立って、街中で生きた英語に触れるのが、気持ちもリフレッシュするし、一番いいんでしょうねぇ。
イヤイヤ、カレンダーどおりでせいぜい3、4日程度の休みだし、しばらくぶりに遠ざかっていた英語・英会話のテキストでもまた開いてみるか…という、そんなアナタはちょっと聞いてくださいな。
ふだん仕事が忙しく、通勤電車とかカフェとか会社の休み時間とかの、いわゆる細切れ時間にしか勉強のチャンスがない人って、持ちなれない(笑)まとまった休みを目のあたりにすると、ついつい「やり残してたまっていた、あるいは手付かずの英語・英会話教材の復習をして、日ごろの遅れを取り戻そうとする」傾向がありますよね。
マジメな学習者ほど特にそうです。違いますか?
ワタクシが思うに、そのような「これまでのたまった遅れを、連休中にがんばって一気に取り戻すぞ!大作戦」は、できればやめたほうががいいです。
その理由は、せっかくの休みなんだから休みなさいよ…ということではモチロンなくて、「ふだんやっている勉強のコンテンツを、ふだんと違った環境・リズムでおぼえようとすると、なぜか長期記憶として残りにくいから」なのです。
英語・英会話に限りませんが、外国語を身につけようとするなら、最後の成否は、「勉強してから長い年月が経ったあとで、自分の中にそれがどれだけ血肉となって残ったか」の総量で決まってきます。
で、日ごろの勉強を通じて、短期記憶から長期記憶への移行作業が頭の中で並行して行われているわけですが、普段の学習のリズムと異なった状況において、いつもの学習内容に触れようとしたときに、ワレワレの脳はなぜかその違ったリズムを拒絶してしまうのです。
長寿医療制度のゴタゴタから学んだ、英語・英会話学習のひとつの本質
本日は、この4月からスタートした長寿医療制度(後期高齢者医療制度)の話題を、前フリにします。
話の枕としてはちょっと長めですが、最後は英語・英会話の話でうまいことまとめますので、どうぞご勘弁を(笑)。
新聞やテレビのニュースで皆さんもご存知のとおり、75歳以上の方を対象にした、この新しい医療制度。
すでに始まったにもかかわらず、新制度のことをまったく知らなかったり、到着した新保険証を間違って捨ててしまったりするお年寄りが、全国的にずいぶんたくさんいるようですね。
いまごろになって、「この保険証は何だ」とか、「年金が減るのは困る」とかいった苦情とともに、新制度についての問い合わせが、市町村窓口などに殺到している…とのことです。
「これまでの国の告知やPRが不徹底だった」と、非難を浴びっぱなしの行政サイドは、制度の名称を変えてみたり、新保険証がなくても医療費の窓口負担が変わらないようにするなど、そのフォローに大わらわ…といった感がありますね。
この新制度の良し悪しは別として、実はワタクシ、この点でちょっと不思議に思っておりました。
「甘い」と言われるかもしれませんが、この制度の事前PRについては、自治体(市町村)としては、まぁまぁよくやっていたんじゃないの?と、思っていたのですよ。
それにもかかわらず、知らないヒトがまだこんなにいるのか…と。
英語・英会話学習、いわゆる「完璧主義」を考える(2)。
前回、英語・英会話学習で完璧を期そうと思ったところで、しょせんその「完璧さ」は、「日本人がこれまで無意識下で刷り込まれてきた、英語・英会話に対する世間感覚のようなもの」との比較で、自分が漠然とイメージしている世界にすぎないのではないか、といったような話をしました。
そうなってしまうのも、やはり評価を「自分の外=他人、世間」に求めてしまう傾向が、私たちのなかに大きいからかもしれません。
普通は、英検やTOEICなどを受験し、わかりやすく到達基準がはっきり示されている「級」や「スコア」などによって評価してもらうことで、初めて自分の実力がどの程度のものなのか把握している人が、多いわけですから。
しかし一方で、英検一級を取ろうが、TOEICでフルスコアをマークしようが、英語・英会話をモノにしたという実感からはホド遠い…と感じている人(世間的にはおそらく「英語ができる人」とみなされているでしょうが)もまた、たくさんいるはずです。
つまり、こういった試験で高得点を得たとか、ネイティブとミーティングで丁々発止やり合ったとかいった事実(すなわち外部評価)をモノサシにして、自分の立ち位置を一度は確認しようとしたものの、結局それでは「本当の英語力」との距離感をはかることができないことを、はっきり体感したからではないかと思うのです。
「世間・周囲の評価」など、自分がどの程度英語をモノにしているかをはかるモノサシとしては、ホントに頼りにならないということが、内心でよくわかっている。
だから、もし彼らが「完璧な英語力」を目指していたとしたなら、その「完璧さ」の定義は、世間でいうところのものとはまったく異なる、独自の内面世界の形成であるかもしれません。
ワタクシが思うに、英語・英会話を学べば学ぶほど、自分の実力がはたしてどの程度のものなのか、自分でもよくわからなくなってきている…と感じている人は、意外にたくさんいるじゃないかと思います。
英語・英会話学習、いわゆる「完璧主義」を考える(1)。
前回のコラムで、「リスニングでは全力で100%聞き取りにいく。」といったようなことを書きましたが、100%=パーフェクト・完璧、ですよね。
そこで本日は、左に大きく振れた振り子を右に振って精神的バランスをとるが如く、英語・英会話の学習ではいったいどこまで完璧を期すべきか、ということについて、思うところを書いてみたいと思います。
「これまで完璧な英語を話すなどと考えたことも、目指したこともない」という方をとりあえず想定外とした話になりますので、そこはご了承ください。
よく世間で言うところの完璧主義、というのが、英語・英会話の学習の現場において、普通はどう現れてくるかについての例を、いくつかあげておきますと。
・英会話において、文法的ミスのない、イントネーションやアクセントもきれいな非のうちどころのない英語を話したい。それができない自分が、何かしら許せないような気がしている。
・原書を読む時に、わからない単語があるのが気持ち的に収まりが悪くて、後で辞書で必ず意味をたしかめておかないと気がすまない。
・英単語の暗記で、自分で決めたノルマを守らなければ気がすまない。しかも、単に日本語の意味をおぼえるだけでは底が浅い学習のように思えて、類義語や語源をチェックしたり、あわせて英英辞典での定義や、用例となる英文までもおぼえるように努力している。
そこまでやらないと、本当に英単語学習をしたことにはならないのではないか…という気が、内心いつもしている。
まぁ普通は、こんな感覚で対応している自らのことを、「私は、どちらかというと完璧主義的な性格だ」などと形容したりしているんじゃないでしょうか。
しかしお気づきの通り、この場合の「完璧」というのは、結局は『自分の内心で設定したところの、「完璧」の定義・範囲に沿っているかどうか』ということですよね。
いま、自分が向かい合っている一つ一つの英会話の表現や英単語において、ここまで覚えて使いこなせたならば完璧ですよと、(商売のセールストークとして乱発する場合は除いて)誰かが保証してくれるわけでも、客観的な基準があるわけでもない。
言ってみれば、自分が漠然と抱くイメージをモノサシとして、そこと現在の自分との間に横たわる距離をざっと測ってみて、「パーフェクトに近い」「完璧とはほど遠い」などと、おおよその感覚で言っているに過ぎないわけです。
で、このモノサシとなるイメージは、われわれの日々の生活で、何気なく見たり聞いたりしている、雑誌やテレビからの情報、知人との会話などで形成された世間的な印象で、形作られている場合が多いはずですね。
たとえば、最近とある缶コーヒのテレビCMで、会議の席で外人ビジネスマンの問いにカタコトの英語で返答した新入社員を、タレントがかけつけたりヘリが飛んだりパレード行進したりで、街をあげて大変な騒ぎで祝福する…という内容のCMが流されているのを、ご存知でしょうか。
英語リスニング、全力で100%を聴き取りにいく姿勢こそが力を伸ばす。
もう一週間ほど前の事件になりますが、新千歳空港の滑走路で、飛行機が無許可で離陸しそうになり、あわやもう少しで大事故か…というニュースがありましたよね。
で、管制交信を通じての英語表現を言い違えた、聞き違えたというような話が、発生の原因としてあげられています。
管制用語としてのtake offとdepartureの意味する範囲を取り違えたとか、あるいはexpectの部分を聞き漏らして離陸許可と勘違いした…といったことが、新聞では報じられていました。
もちろん、指示を復唱して再確認しなかったこととか、英語の聞き取りミス以外の理由もおそらくはあるのでしょうが、ワタクシは単純に、これは恐ろしい話だなぁ…と思いましたね。
ちょっとした聴き取りミスが惨事につながりかねない、ということ自体の恐ろしさももちろんあるのですが、パイロットのように、多くの人命を預かる飛行機の操縦・離着陸というものすごい緊張を強いられる場面で、日常的に英語を使っている人のするミスにしては、これはあまりな凡ミスのような気がします。
管制交信はほとんどすべて英語で行われるとはいっても、使う英語表現だって割と定型的なはずですし、数や種類だってそうは多くないはずですよね。
つまり、「英語を日常的に業務で使い慣れた者が、高度の集中力を必要とされる環境で、定型的でよく聴きなれたはずの英語を聴いたにもかかわらず、聞き違えによる深刻なトラブルが生じた」わけです。
この事実に、「そう簡単に克服できない世界の存在」のようなものを感じて、ちょっとブルッとしたわけです。
英語を学ぶ者にとって、こういうのは、ちょっと考えさせられる話はないでしょうかね。
ところで、その英語リスニング。
ワタクシの個人的な体験として、少しアドバイスめいたものを申し上げたいと思うのですが。
あくまで自己評価ではありますが、何を言われてるんだかさっぱり聴き取れずに、独りモンモンと苦しんでいたかつての自分と比べてみると、さすがにリスニングの力はずいぶんと上がったものだ…と実感する瞬間が、実は内心で時たまあったりします。
もちろん、ほとんど聴き取れず理解不能、細々と積み重ねてきた自信をコナゴナに打ち砕かれる瞬間も、いまだひんぱんにあることも、これまた事実ですが…。
それはともかく、いったい我ながらどうしてここまでリスニング力が伸びたのか、その理由について、考えるともなく考えてみるときがあるのですが。
実は、いくら振り返ってみても、これといったはっきりとした理由は、いまだに思い当たらないんです。
おそらく「膨大な量の聴き取りを、膨大な時間をかけてやったから」ということだけは、まず確実だと思うのですが。
とにかく「このリスニング学習法でやったから、上達した」といった、ある特定のアプローチに頼った結果でないことは、確かなようです。
かじるだけはたくさんかじったものの、結局どれも長続きしませんでしたので(笑)。
で、今から過去を振り返ってみて、リスニング向上にはっきり寄与した理由としてあげられそうなのは、結局、わずかに二つだけのような気がしています…。
英語学習、今までの自分のスタイルとフォームは、絶対に捨てない。
「英語・英会話、即効性があって、短期間でペラペラとカッコよくしゃべれるような方法は無いものか…」(無いです・笑)と、いまこの瞬間もネットであちこちの英語関連サイトや広告をチェックしている人が、この日本にはたくさんいるんでしょうね、きっと。
ワタクシも、大学生から社会人なりたての頃などは(もう何十年も前ですが)、実は自分が知らないだけで、世の中にはきっと画期的な英会話学習法のようなものが存在するのだろう…などと、内心思っていたものです。
要するに、自分には「情報」が無いのだ。
きっと、一足飛びに学習スピードをあげるような「ノウハウ」は、この世に存在するのだ。
そう思っていた時期が、確かにありました。
ま、それから二十年以上経った今、まだしつこく英語・英会話ワールドにつかず離れずで触れ続けていることもあってか、画期的と称される英会話教材や新しいと喧伝される英語学習法に触れるチャンスは、わりと多かったように思います。
はっきり数えてはいませんが、1年で10コ位の新たな「英語・英会話学習のアプローチ」をチェックしてきたとしたら、これまでの年数を単純にかけても、数百程度の方法論には、遭遇してきたことになりますね。
「英語で考える」から「英語は一切、勉強するな!」(こんなタイトル、よく思いつきますよね…)まで、まぁ世にはホントにさまざまなバリエーションの、英語・英会話学習法なるものが、あるわけですが。
ただ、少なくともこのブログを読んでいらっしゃるようないわゆるフツーの英語学習者にとっては、「義務教育や高校・大学などで『英語・英会話』なるものを勉強した経験がある」というのは、ほぼ前提としては共通していると思います。
だから、まったくのマッサラな状態、完全なゼロベースのABCから、英語・英会話をスタートするという人は、子供を除いてはほとんどいないはずですよね。
いかに今この瞬間に、当時勉強したことなどをスッカラカンに忘れていようが、それでもかつては英単語をおぼえようとしたし、教室で立って教科書の英文の朗読なんかもしたし、一夜漬けでヒィヒィいいながら試験勉強なんかもやった記憶があるはずです。
たぶんですね、ワタクシが思うに。
その頃アナタがやっていた英語・英会話の勉強スタイルは、好むと好まざるとに関わらずすでに「あなたの生涯にわたる、学習の基本フォーム」に、もう、なっちゃってます。
で、おそらく今から根本的にフォームを変えきることは無理だと思うし、それにそう考えないほうがよいし、そうしないほうがよい、と思うんです…。
英語・英会話、上手くなりたいなら、ひとつの方法論にこだわらない。
おとといかな、本屋さんで「かなり役立つ日本語クロスワード」という本を買いまして。
アタマがゆだった時のクールダウンに、一日に二題くらいずつ、日本語に関わるクロスワードを解いてるんですが、あらためてガクゼンとしましたよ。
自分がホントに、日本語を知らないことに(笑)。
もう四十年以上日本で生きてきて、毎日使っていて、この程度かよ…と思いました。ホントに。
そんなヤツが英語のブログを書いているんですから、ある意味、これは神をも恐れぬ所業でございます。
正直、パズルは時間の浪費のような気がして、これまではあんまりやらなかったんですが、かなり反省。
クロスワード、恐るべし。
それでも、このクロスワードでまたほんのちょびっと、自分にとっての新しい日本語を知ることができるので、これはこれで良いことだと思っています。
ということで、英語・日本語その他を問わず、コトバの深さに触れるためのアプローチ法は、クロスワードパズルはもちろん、ゴロゴロと身の回りに転がっていますね。
それらを全部いろいろ回ってつまみ食いすること、これは「最後の最後は」ムダにならない、とワタクシなどは思っています。
ホラ、よく受験勉強なんかで「あれこれ手出しせずに、一冊に絞ってやること」とかいう話を聞きますよね。
「試験合格」のように目的がはっきりしてる場合は、時間も限られていることですし、「最短距離を走る」こと自体にかなり意味があるので、そのほうがヨイでしょう。
でも、「自分が日々生きる中のどっかの時期で、英語・英会話が上手くなりたいな」くらいに、ユルヤカに構えているアナタなら(笑)、間口をもっと大きく取って、やる順番とか範囲を絞ってとかあんまり細かく考えずに、いろいろ試してみたほうがよいように思います…。
「英語の勉強、面倒くさい」という気持ちとの戦い方(4)。
2008年となりました。
本年も皆さんの英語・英会話の上達になにかしら役立つような記事をアップしていくことに努めますので、「そこツボ!」日記をどうぞよろしくお願いします。
さて、越年となってしまったこの「英語・英会話学習における、面倒くささの克服法」というテーマ。
もう一度まとめ直しておきますと、個人的には三つの方法で対処している…ということで、その二つまでご紹介しました。
つまり、「面倒くさいマインド」の、ワタクシ的克服方法としてですが…
(1)やらないで済む時は、面倒くさいと思うならいっそ全くやらずに、英語・英会話に対する学習意欲の「飢餓状態」を高めておく。
そして、いざ気持ちが大きく盛り上がった時に一気に集中してやれるよう、周辺の雑事を片づけ、その時のためにまとまった時間を空けておくようにすること。
(2)上の(1)の応用編。特に何かしらの締切があるときに使うと、効果的。
英語・英会話の学習がやれる状況の時にも、あえてやらない。
「原稿の締切間際に、ホテルなどで缶詰になって、作品を仕上げる作家」的な状況を、意図的に作り出す。
しかし、(1)と同様に、周辺の雑事はなるべくそれ以前に片づけておくようにすること。
一気に集中して学習を終えた時の達成感がとても強いことから、学習のモチベーションを、次へとつなげやすいやり方である。
弱点としては、たまに不測の事態が生じて、結局のところ締切に間に合わずに終わってしまう(笑)ヒサンな状況の時があること。
この二つだったわけですが、本日は三つのアプローチの、最後の一つです。
それは、(3)「面倒くさい」と思いつつも、ノロノロと分量をペースダウンしながら、とにかく気持ちにムチ打って、しぶとく続けること。
ただし、設定した分量ノルマは未達でもOK。
ただ、「とにもかくにも、続けている。不恰好でも、前には進んでいる」という事実だけを、自分の内面に刻むようにする。
ことです。
「(1)や(2)で言っていることと、正反対だろ!」と、ツッコまれそうな気がします。
そのとおりで、アプローチとしては、ほとんど真逆の方向かもしれません。
しかし、真逆の方法論であるからこそ、意味があると思っています…。
「英語の勉強、面倒くさい」という気持ちとの戦い方(3)。
ちょっと間が空いてしまって、申し訳アリマセンでした。
「英語・英会話学習における面倒くささの克服」をどうするか、というテーマの三日目であります。
前回は三つある個人的克服法の、ひとつめをご紹介しました。
それはすなわち、「やらないで済む状況のときは、極力やらない」というだけのこと。
その間に他の雑用などを片付けて、後のための時間を大きく空け、心の中の「久しぶりに英語・英会話をやってみたいんだ!」という、ある種の飢餓状態が最高に盛り上がるまで待って、最後に一気に開放するようにする。
そうすると脳だけでなく、目も耳も、体のすべての器官が、おぼえるためには最高の状態で働いてくれる。
まとめると、そういったことでした。
本日は、ワタクシ的「面倒くささの克服法」の、二つ目のご紹介となります。
ご紹介した最初の方法を、英語・英会話学習においても時おり行っているうちに、いつの間にかそれを、変則的に応用するようになってしまいました。
すなわち、「やらないで済む状況のときは、極力やらない」などというレベルでは済まなくなってしまい(笑)「やれる状況の時であっても」、その場はあえて見送り、時間的締切がギリギリになるまで待ってから、集中して一気に、英語・英会話学習を大量に行う」というやり方を、時々するようになってしまったのです…。
一言で言えば、「締切のある時は、締切がギリギリに近づくまで、あえてやらない」大作戦です。
もう、こう書いただけで、反論が矢のように飛んでくるのが想像できます。
そもそも、大量に成すべきことに追われる忙しい現代、こういう状況に陥ることを避けんがために、「タイム・マネジメント」の重要性が、これだけ声高に叫ばれているのでしょう。
だいたい、ギリギリにやって仕上がらなかったら、どうするのだ。
それに時間がおしてから着手したところで、急いでやっているぶん、よい結果など期待できるはずもない。
スケジュール管理をしながら、毎日少しづつ量をこなすことこそが重要である。
反論の主なポイントは、そんなところでしょうか。
しかしですね、ワタクシだけではなく皆さんだって、人生において仕事でも宿題でも、睡眠時間を削ってやって、締切ギリギリになんとか仕上げた…ってことが何度もあると思うのですが、いかがでしょうか。
その是非は横において、その時の心理状態としては、「パーフェクトではないにせよ、期限までにはなんとかやり終えた!やったぞ(あるいは、やれやれ)」といった気持ちのほうが、強くはなかったですか?
つまり、達成したその内容の質の検証などよりも、明らかに「期限まで達成できたこと」そのものを喜ぶ心理状態に、なっていませんでしたか?
こういう気持ちになることこそが、延々と果てなく続く、「英語・英会話学習」においては、実は大切なことではないかと、思うわけです…。
「英語の勉強、面倒くさい」という気持ちとの戦い方(2)。
前回は検索エンジンMs.Deweyの面白さに興奮してしまい、1回中休みしてしまいましたが、前々回でお話ししていた「英語・英会話学習における面倒くささの克服」をどうするか、というテーマに戻りたいと思います。
前々回の復習をちょっとしときますと、英語・英会話で「面倒くさい」という気持ちががもたらす最大の害悪は、学習の放棄によって、これまでの積み重ねがゼロに帰してしまうことである。
その一線さえ守れるなら、むしろどうすれば楽ができるかということで、英語・英会話の勉強の効率化をはかる工夫につながることから、「面倒くさい」と思うのもそう悪いことばかりではないよ、といった話をしたわけです。
で、「英語・英会話に触れるのが面倒くさい」と思ったとき、個人的にはどう対処しているか、というお話をする、と予告していたわけでした。
本日から、その個人的方法論について、お話しします。
なお、あらかじめ申し上げておきますが、ワタクシのやり方は、思い込みなり個人的なクセが多少入っているので、これが良いやり方だ、という意味でご紹介するわけではありません。
「他の人(学習者)がどういうやり方をしているか」については、読者の方にとっての関心事だろうと思うので、ひとつの実例として、ご紹介しておくということです。
本人としてもかねがね、もっとよい克服法が世の中にはたくさんあって、それこそ自分がその実践を「面倒くさがって」いるだけではないのか?という不安が、内心ではぬぐいきれていません。
特に時間管理の専門家からはむしろ、「最低のやり方」と批判されそうな気すらします(笑)。
なので、あくまでこういうやり方をしている人もいる、というご理解のもと、以降をお読みください。
まず一つ目…。
「英語の勉強、面倒くさい」という気持ちとの戦い方(1)。
久しぶりにシリーズで、コラムを書いてみたいと思います。
英語・英会話の勉強を長く続けていると、どうしても「あぁ、勉強するのがタルイなあ、面倒だなぁ。」と思う瞬間が、断続的に、ないしはしょっちゅうやってきます。
これは、当人以外の勉強をやらせる側からすると、「英語がうまくなりたいという熱意が足りないから、そんなことを言うんだ。」などと、お説教のひとつもしたくなる傾向が、どうしてもあるようです。
ま、「勉強しなきゃ、大きくなって困るんだからね!」と子供を叱るお母さんと、根本的には一緒ですね。
これは、叱る側と叱られる側の思い・感覚が、なんというか別次元にあって交わるところが無いので、叱られる側の「面倒くさい感」を解消するには、あんまり役にたたないことが多い。
そもそも「同じ感覚を共有する」こと自体が生じていないわけですから、説得も効果がないわけです。
さもなくば、「突き放す」というやり方もあります。
英語の勉強法の本などを読んでも、「楽して英語は身につかない!」「できないならアナタには向いていない、止めなさい!」と、一言でバッサリ切って捨てている厳しい御仁が、多いようですけどね。
英語・英会話に限らず、スポーツでも仕事でもなんでも、人には向き・不向きというものがあるのは事実ですので、これはある意味では正解なんですけど。
ただ、そう突き放して言う当の本人こそが、「英語の勉強が続かない人間が、どうしたら勉強を続けられるようになるのか」という解決方法を探しだして提示することを、まさに「面倒くさがっている」場合もずいぶん多そうです。
「そういうあなただって、アドバイスするのを面倒くさがってるじゃん」と、ツッコミのひとつも入れたくなったりします。
しかしこのように、他人様から、しかられたり突き放されたりしているぶんには、まだマシかもしれません。
世の中には、この英語・英会話学習者の面倒くさい心理を突き、「楽な方法の提案=面倒くささの解消」というストレートな図式で、これをビジネスチャンスに転化してしまう人たちが、極めて多く存在するので、油断がなりません。
というか、英語・英会話産業は、ことさらそういう傾向が強いような気がしますが気のせいでしょうか。
そうじゃないと、この業界、ここまでデカくなっていないでしょう。
ビジネスに転化した結果の商材が「毎日CDを聴きつづけるだけで、楽々!たった4週間で英語が話せるようになった!今までの苦労はなんだったの!?」とか、ま、そんな感じのヤツです(笑)。
しかし、このようにしてビジネスする側をどうこういうつもりは、別にありません。
「面倒くさい」ということの本質は、「もっと楽をして結果にたどり着きたい」ということですから…。
英会話フレーズや英単語暗記、初めてインプットする時の環境が肝心。
昨日は、一週間に1回くらいのペースでやるようにしている「一日断食」の日でありました。
といっても、野菜ジュースくらいは飲みますが。固形物の摂取を厳禁にして、終日過ごします。
メタボ対策という意味もありますが、一日断食の効果をもっとも実感するのは、一晩寝て起きた翌朝の、目覚めの瞬間ですね。
なんというか、それはもう「ものすごい体調の良さ」を実感するわけです。体の中が末端までチューンアップされているかのような、手足の隅々まで、神経細胞が活き活きと冴え渡るような感じ。
ま、しかしこの感覚も長続きせず、次の日に食事を一日三食の通常のサイクルに戻していくなかで、いつの間にか消え去ってしまうわけですが。
この「朝起きた瞬間の爽快感」を味わいたくて、たまにやる「一日断食」、苦しいにもかかわらず、意外にも続いていたりします。
さて、この前フリから、英語・英会話関連のお題へとつながるわけですが。
人間である以上、何かを暗記したり学んだりといった作業を、一日24時間あるなかで一体いつ行うか?といったことを考えてみると、当然に作業効率の良し悪しの波があるわけですね。
仕事をしている人は、帰宅後の夜でないととても勉強時間が取れないとか、プロジェクトで多忙で週に2回もできればオンの字だとか、時間をひねり出すことそのものに、苦労されているかもしれません。
以前もこのブログで書きましたし、また一般によく知られていることですが、「朝の時間」は脳が睡眠による休息をとってリフレッシュされている状態になっているため、英会話フレーズや英単語などの暗記モノなどにオススメの時間帯であること、これは間違いありません。
また、日中や夜であるにせよ、周囲の雑音のない静かな環境で集中してやれる時間帯は、通勤電車の中で参考書を開いているときよりも、質の高い時間帯であると言えるでしょう。
このように一日24時間の中で、英語の学習という視点で注意深く観察してみると、「明らかに暗記作業に適した状況の時間帯・環境」と、「明らかに暗記効率が落ちる時間帯・環境」に、区分けできるわけです。
このうち、前者の時間帯の絶対量を増やすように工夫することが大切なのは、言うまでもありません。
しかし本日、ワタクシが強くオススメしたいのは、とりわけ「初モノ」となる英会話フレーズや英単語の暗記について、「明らかに暗記作業に適した状況の時間帯・環境」に集中させて、それを全部使ってやるようにしよう、ということです。
頭が最高のコンディションを保っている時間・環境で、その時間をほぼ全部投下するべきは、初めてお目にかかる英単語やフレーズの、暗記・インプット作業。
復習や、暗記以外のルーティン作業などでこの黄金の時間帯を費消することは、スパッと止めましょう。
もっとも暗記作業に適した、ひとり静かに集中できる早朝などの時間帯に、これまで見たこともない「初モノ」の英単語・英熟語・英会話フレーズを、自分の頭の中に強烈に刻印する。
これだけに、全力投球することです…。
英語・英会話、「細部にこだわり、細部にこだわらない」姿勢。
英語の勉強に限ったことでもないのですが、個人的に好きなフレーズのひとつに「神々は細部に宿る」という言葉があります。
「英語・英会話をマスターする」という目標は、自分にとって、たとえていえば「どっしりそびえ立つ、樹齢ウン百年の大木」のようなイメージがあるんですね。
でも遠めにみてそびえ立っているそんな樹木も、近づいてよく目をこらすと、一枚一枚の葉が息づいている、見えない細胞の巨大な集合体なわけでして。
比ゆ的にいえば、自分の英語という樹木を形づくっている葉っぱや枝や根は、いわば英単語の一つ一つや英文フレーズの暗記、発音練習、日々のスピーキングやリスニングの練習、バックグラウンドとなる関連知識の吸収、といった、細々とした日々の学習に相当するわけです。
つまるところ、立派にそびえ立つ樹木を最後の最後に拝むためには、そういった細々とした面についての学習を続けることが欠かせないわけで。
だからこそこの「神々は細部に宿る」という言葉は、日々の忙しさや面倒くささにかまけて、つい細かいところをはしょってしまい、「まぁこのあたりでいいだろう」と適当なところで学習をやめてしまいたがる、自らに対しての戒めの言葉になっているのですが。
細かいところを詰めていく気持ちを途中で失ってしまうと、そこには神々が宿らない。
したがって他の国で使われる言葉を理解し使いこなすという、ある意味「神がかりな」(笑)パワーが自分の中に舞い降りてこないのではないか、と漠然と思っているわけです。
しかしまた一方で、ここがさじ加減というか、非常に難しいところだと思うのですが。
細かいところに過度にこだわってしまうと、今度は英語という巨大樹木の成長自体がじりじりと遅くなってきて、自分の中のモチベーションを保つのが、難しくなってきたりします。
ときどき樹木から数歩遠ざかってみて、「どれどれ、どこまで大きくなったかな」と木々の成長を確認する楽しみがないと、なんのために自分は英単語を一日数個ずつおぼえようとしているのか、語源のチェックをやっているのか、「レストランで使われる英会話フレーズ集」などというものに向き合っているのか(めったに行きもしないのに)が、あるときフッと、わからなくなる時がある。
そしてそう感じる瞬間がだんだん増えてくると、勉強していること自体、無意味な作業のように思えてきたりして、これは語学学習においてはキケンな状態になってきます…。
初心者ほど、「英会話学校」「短期留学」に行かないほうがよい理由。
英語・英会話に触れる機会は、外資系企業勤務だとか大学での専攻が英語だとか、外的な環境としてそのように用意されたものがない限り、この日本でごく普通に生活している限りは、そうそう毎日は訪れてこないはずですよね。
だからこそ、みんな意識して自分で学ぼうとし、自分なりのアプローチで、英語・英会話の世界に入り込もうとする。
そしてそういう人たちが多いからこそ、英語産業・英会話産業なるものがここまで発達をとげ、これまでの人生で英語にまったく関わりのなかった人に対しても、TOEICが会社や就職試験で一律で課せられたりしている。
こういう環境にいると、どうしたって英語・英会話については「情報流入過多」の傾向にある、言わざるを得ません。
一方で、せっかく得た英語・英会話についての情報を使う肝心の機会のほうは、自然にまかせていると、あまりに少ないですよね。
だから、ごく単純に「読んだり話したりする機会がないからだ、使う機会を増やさないと…」と考える人のなかには、あまり深く考えもせず、英会話学校にローンを組んでまで申し込んだり、日本を脱出して短期語学留学なんかに行っちゃったりする人がいます。
しかしここには、ちょっとしたワナが潜んでいるように思えてなりません。
いかにこの日本に置いて英語・英会話「情報の流入過多」にあるにせよ、それはアナタの英語・英会話力における「インプット」が増大していることとは決してイコールではない、ということです。
いってみれば、これらチマタに渦巻く英語・英会話熱は、好むと好まざるとにかかわらず、アナタの中を一瞬だけ、素通りしているだけにすぎない。
それは、アナタが意識して自分の血肉にしようと試みる作業であるところの「インプット」という作業と、はっきり分けて取り扱われなければならない。
したがって、アナタが日々嘆いているはずの英語・英会話の「アウトプット」の機会の少なさと対比されるべきは、アナタの「インプット」の量であって、アナタの前に一瞬だけ現れた後に、風のようにすりぬけていく「英語・英会話情報」の膨大な量と、比べられるべきではない。
量の比較は、「インプット」VS「アウトプット」の関係において、モノサシを正しくそろえた上で、成されるべきであります…。
「英語脳」が「廃用性萎縮」に陥ってしまう、この落とし穴に注意。
「英語・英会話の上達を考えるブログ」と言いながら、最近は全然違うアングルから話をスタートすることが、自分でも多いような気がしています…。
ということで、いきなりですが、「廃用性萎縮」という言葉をお聞きになったことはあるでしょうか?
簡単に言えば、長い間、身体の器官や機能の一部を使わなかったために、その部分が衰えて小さくなってしまうことです。
たとえば、筋肉を使わないでいると萎縮して筋力が低下するのは、この「廃用性萎縮」の一例です。
健康な人であっても、使わないと筋力の衰えなどの「廃用性萎縮」が、意外なほど速いスピードで進行するらしいです。
これは人間の器官のほとんどが、『使わなければ、使えなくなってしまう』性質を持っていることから、生じるんだそうです。
そろそろ話をどういう方向に持っていこうとしているかおわかりだと思いますが(笑)、この「廃用性萎縮」は筋肉や器官だけの話ではなく、アタマに対する刺激が少ない場合、脳を使わなくなった場合にも、モチロン現れます。
いわゆる認知症とかアルツハイマーなども、本当はこの脳の「廃用性萎縮」が原因の大半ではないか、という説もあるくらいで、日々アタマを使うことが、いかに大事かということなのですが。
皆さんはモチロン、ご自分の「英語脳」の廃用性萎縮を回避すべく(笑)、日々トレーニングに励まれてることでしょうから、英語の勉強を続けないとアタマと口が「廃用性萎縮」にかかっちゃうよん、といった、ごく当たり前のことを言いたいわけではありません。
そうではなくて、英語の勉強「だけ」をコツコツ続けることによる、脳への刺激が刺激でなくなる、単調な日常のありふれた行為になってしまうことの危険性を、ここでは声を大にして言っておきたいのです。
毎日コツコツと、「本日のノルマ、英単語30個を予定通り消化」などと、自分を律しながら積み上げていけるのはもちろん貴重な能力であり、そうできること自体、まさにその人の強みです。
しかしここでのポイントは、英語・英会話の学習を続けていたとしても、受け取るアナタの脳が、果たしてそれらを新鮮な刺激として受けとり活発に働いているかどうか?ということです…。
「がんばらない」「あきらめない」は、「英語との付き合い方」でもある。
はやいもので、もう11月ですねぇ。
季節的には「勉学の秋」というヤツですが、アナタにとっての英語・英会話、上達に向けイメージどおりに、勉強は続いていますでしょうか?
ところで、鎌田實さんというお医者さんが著した、医療エッセイのシリーズがあるのですが、皆さんはご存知でしょうか?
人の生死や医療、リハビリ、介護などについて、医療の現場から人生の側面を優しい目線で綴っていて、どの本も大変好評のようです。
中でも話題に上った著書に、「がんばらない」「あきらめない」という表題の二冊があります。
英語・英会話を学ぶときの、目線というか姿勢について、ですね。
もしワタクシがいちばんしっくりくるアプローチを、皆さんにお伝えするとしたなら、端的にどう言ったら、一番ピッタリくるだろうか…?と、これまでこのブログを書きつつも、ツネヅネ考えていたんですが。
ついに、その言葉に、出会ったような気がします。
そう、この「がんばらない」「あきらめない」という二つの言葉のセットが、一番しっくりくるような気がするのです。
「医療」と「英語・英会話」、ジャンル的には全然異なりますけどね。
これは、「がんばって」会得した英語・英会話に対して価値を見い出さない、ということでは、モチロンありません。
数ヵ月後の海外出張を控えてだとか、または昇進試験でどうしてもTOEICスコアで一定点数以上が必要なんだとか、短期的に英語力をアップすることに血眼にならざるを得ないケースも、現実問題としてはもちろんあるでしょう。
「がんばることができる」のはひとつの立派な才能ですし、能力でもあります。
ワタクシですら、睡眠時間を切り詰めてしゃにむに「がんばる」時だってタマにはありますし、皆さんだって好むと好まざるとに関わらず、そういった時があるはずですよね。
でも、「がんばる」というのは、すでにそうしているだけで「一時的」・「瞬間的」なものですから、結局は「がんばっている状態」が終わるときが来るし、普通の状態にもどってくる過程で、「がんばって得たもの」を維持し続けることが、難しくなります。
なぜなら、「がんばる」ということは、自分自身になんらかの「負荷」をかけていくことですから、いつまでもその負荷に対しては耐えられないわけですね。
英語という「巨象」を食べるとき、小さく切る前にやること。
唐突ですが、「象を食べるときは、どうするか」という話を、お聞きになったことはありますか?
これからする話、あくまで「象」は「自分の手に負えないくらい巨大なテーマ・課題・解決するべき問題」といったことの象徴、話のたとえとして用います。
もちろん、実際に食べるハナシじゃなくてね。
皆さんがとりくんでいる英語・英会話だって、外国人であるワレワレにとっては、結構なサイズの「巨象」だと思いますよ。
見上げて「うーん、これを全部食べるのかぁ…」と、ため息をつくくらいに。
この解決策としてよく知られているのは、
「象を食べる時(解決すべき大きな問題に直面したとき)は、まず小さく切ってから食べる。まずは、問題を出来るだけ自分の手に負える範囲まで小さくしてみる。」
というアプローチです。
最初にこの解決方法を聞いたときは、「ふぅん」と思って深く気にもとめなかったのですが、だんだんと「それだけじゃ、足りないかもしれない」と、思うようになりました。
だって、大きいままの象に直接ガブッとかぶりつこうが、小さいステーキサイズにして皿の上に盛り付けて食べようが、象は象であることに、変わりありませんからね。
いくら口に入るサイズを小さくしても、「目の前にドンといる、あの象(=英語・英会話)を全部食べなくてはならない…」と思ったら、やっぱり「あと何万皿ぶん、食べる必要があるんだよ…」と、ゲンナリしてくるんじゃないでしょうか。
ですので、ここからはワタクシが考えた、もう一ひねりした「象の食べ方」をご紹介します。
なんだと思われますか?
「食べているのが象であることを、無理やり忘れる?」
イヤイヤ、自分が今とりくんでいる全体像(=象)を、見失ってはなりません。
「さまざまに味付けを変えて、飽きがこないように工夫する?」
いい心がけで一定の効果はありますが、ひととおり回した後は、また厳しくなりますね。
ワタクシの提案は…
「挫折」じゃなく「中断」にすぎない、と言おう。
英語・英会話を秋からスタートした人たちの「学習記録ブログ」が増えてきているようで、たまに見て回っています。
この人たち、いつまで続くかなぁ、と思って(笑)。
いや、別に、イジワルで言っているわけじゃないんです。
英語・英会話の勉強とブログの更新、二つとも長くやるのは、誰にとっても、ケッコー
大変ですからね。
仕事も、秋に入ってさらに、バリバリとやんなきゃならんでしょうし。
英語のブログランキングを見てもらうとわかりますけど、上位陣はどこもほとんど、「うーん、このブログの管理人は、すでに相当英語ができる、熟練者だな」と感じさせる人ばかりですよね。
本人がどう思っているかは知りませんが、はた目にみて、明らかにね。
つまり、彼らはブログの更新の方におもに力を注げるわけで、英語・英会話の勉強の方は、自分なりの方法論が、どなたもほぼ確立しているはず。
だから、同じように両方やっているとはいえ、英語・英会話のほうについては、精神的にはずいぶんラクだと思うんですよね。
これが英語・英会話もはじめたばかり、ブログも新規に立ち上げましたじゃ、結構、気持ち的にもタイヘンで、エネルギーを使いますからねぇ…。
ま、開設されたレンタルブログの過半は4ヶ月も持たない、という調査結果も過去にはあるようですし、「英語だってブログだって、やりたいときにはじめて、やめたいときには好きにやめたらいい」というのも、もちろんアリなんでしょう。
ブログのほうはともかくとして、英語・英会話に臨む姿勢については、大半の学習者にとっては、それくらいの軽い感じでいくほうがいいだろう、とワタクシは思っています。
新しく習い事で英会話をスタートした、なかなか上達が感じられない、仕事も忙しくなってきた、で、英会話学校に行く足取りも重くなり、3ヶ月でやらなくなっちゃった。
こういうケースはよくあると思うのですが、ここからが肝心。
海外旅行先の救急車から考える、「伝えたい思い」の強さ。
唐突ですが、海外旅行がらみの話から。
日本人が海外旅行先で急に病気になったとき、それも脳卒中や心筋梗塞など一刻を争う、はやく手当てをすれば助かる確率の高い病気で、救急車を呼ぶような事態になったときに、日本人旅行者は、日本語が話せる病院や医師のもとに搬送されることに、どうも必要以上にこだわる傾向があるそうです。
ありがちなケースとして、保険会社の24時間日本語サービスにまず最初に連絡して、その指示をじっと待っていたり、日本語の通じる病院にこだわっているうちにいたずらに時間がたってしまって手遅れになってしまう事例が、ずいぶんと多いそうです。
他にも、保険会社のオペレーターがとんでもなく遠い病院を電話で指示して、行ってみたら、とっても小さなクリニックで手術対応ができないため、もっと大きな総合病院に転送されたりしているうちに時間がたってしまい、事態がさらに悪化、といったケースもあるようで。
こういうの、外国の医師からみると、とても不思議なんだそうですよ。
「日本人というのはどうして、手遅れの状態になってからくるのか?」って、いぶかる専門医が多いんだそうです。
言葉が通じないにせよ、先進国の総合病院クラスになれば、医療設備も医師の水準も日本とそう違わないので、とにかく一刻も早く、そうした病院に運び込むことが肝心なんだそうです。
まだ海外で救急車に乗ったことはないのですが、救急車に運び込んでしまえば、たいていの場合は病状を察して、ちゃんと適切な専門のある病院に運んでもらえるそうですよ。
英会話を日々学ぶワタクシたちにとって、コミュニケーションというものを考えるときに、これはなかなかに、教訓的な話だと思います…。
「10月1日から気持ちも新たに、勉強をスタート!」とか、力まない。
10月が始まりました。秋ですね。
ようやく灼熱地獄から遠ざかって、頭の回転もなんとなく、一段アップしたような気がします。
新しいことを始めるには、確かによい季節のように感じます。
4月の学校の入学式の時などに感じたあの新鮮な気持ちを、なぜかつられるように、思い出したりします。
新聞でも「新しくはじめる、習い事特集」が盛んに組まれていて、とある調査をみると、英会話がトップに来ていました。
ま、いつなんどきでも、英語・英会話は、こういうときには「ベスト10」は、大体はずさないようですが。
しかし、最近特に思うのですが、「新しいことは、区切りのよい時期から始めよう」などとは、あまり思わない方がいいみたいですね。
別に、英語・英会話の勉強に限らないのですが、何か新しいことをスタートするときは、開始する月日にあまり特定の「個性」を与えないほうがよいだろう、と思うのですね。
確かに、「10月1日から、英会話の勉強を開始」などと区切りよくはじめると、あとで思い出したり、進捗記録をつけたりするのには確かに便利なのですが、言ってみればそれだけでして、半面、デメリットもあるかなと。
そのデメリットと言うのは、10月1日という特定の日に「勉強の開始日という個性」を与えてしまったために、もし勉強を続けられなかったとしたら、その日が挫折のはじまり(笑)、負のスパイラルの起点になってしまうことです。
「あぁ、英語やるぞと決めて、たった1ヶ月で挫折したのか…」といったことのも、あとでヒジョーにはっきりと、思い出しやすくなりますし(笑)。
そういう意味では禁煙・禁酒と、少し似ていますね。
まるで自分がどういうプロセスで挫折したのかをあとで思い出しやすくするために、スタート時期をわざわざ特定しているように気にすら、なってきます。
英語・英会話の勉強のスタート時期を特定するということは、その行為を「線」や「面」ではなく、「点」の視点でとらえがちになるということでもあります。
「点」の集合が「線」になり、いずれ完成形の「面」になることを期待するのは、ワレワレが本能的にもつ感覚であり、願望のような気がしますが。
この最大の欠点は、「点」から、完成形の「面」になるまであまりにも時間がかかり、完成にいたるまでのプロセスが自分の中でよくイメージできず、どうしても気持ちが途切れやすくなり、結果として挫折するケースが多くなる…ということです。
10月1日から勉強を開始することに決めると、次は10月2日、3日、4日…と日を積み重ねて、「点」の延長線上に、最終的な目標を据えてしまう。
目指すべき目標となる、手元から伸びるその線の末端がはるかかなたにかすんで見えないような場合、果てがあるのかないのかと不安におちいって、続かなくなってしまうのが普通ではないでしょうか…。
英語の上手な人にたずねるべきは、「勉強法」ではなく「学習の時間量」。
英語・英会話の勉強法は、世に星の数ほどあふれている感もありますが。
アマノジャクな性格も災いしてか、「こうしなければ、アナタの英語は十年たっても、決してうまくはなりません!」などと断定的に書かれた広告なんぞを見かけようものなら、ついつい反発したくなってしまいます。
確かに多くの日本人にとって、英語は外国語、異人さんの言葉ではありますが、お互い同じ生身の人間同士、言語機能面で問題無きかぎりは、みんなその国の言葉をしゃべって、人の中で日々を暮らしているわけです。
読み書きを習えなかった結果として、文字や文章が書けないケースはままあるにせよ、およそ人と人との交流のなかで育った人間が、成長の過程において相手の話を聞き、自分の意思を表明するための「会話」をすることができない、という例は、ついぞ聞いたことがない。
このことは、理屈のうえでは、「あらゆる人にとって言葉というものは、どんな方法をとろうとも、最終的には身につけることが原理的に可能」であることを、示しているはずです。
このブログでも、前から折にふれ書いていることではありますが、「どうやるか」のテクニック面よりは、「どれだけやったか」という時間投下量のほうが、本質的には大事な問題と、ワタクシは考えております。
日本語環境から離れアメリカで何年も暮らせば、必然的に英会話はうまくなってくるし、日本人と結婚して日本で暮らしている英米人も、日本語がうまくなってくる。
モンゴルからきて相撲部屋でかんづめになり稽古して、日本で相撲をとっている力士も、日本語がうまくなってくる。
上達における程度の差こそあれ、ある意味ではみんな、アタリマエの話です。
環境面でその言語圏にどっぷりつかるということは、すなわちその言語に対する接触時間、すなわち「時間投下量」が一挙に大きく増加することになるので。
だから本質をつきつめれば、英語・英会話上達のためのたっぷりとした時間をアナタが持っていて、それをすべて投下できるならば、どんなアプローチをとったところでたどりつく結果についてはたいして差がないのです。
「こうしなければ、うまくならない」という外国語学習法はその意味では存在しないし、学習への投下時間量をないがしろにして「たった×日で話せるようになる方法がある」式の広告だけに目をとられていると、英会話で商売する側の人たちを喜ばせるだけ。
アナタはさんざんおカネを使った挙句、あんまり嬉しくない結果に終わるのがオチなわけです。
ちまたの英語・英会話の上達ハウツーは、つまるところ、「学習効率をあげるテクニックを身につけることによって、手持ち時間の少なさをなんとかカバーしようとするための試みにすぎない」、とすら言えるでしょう…。
「マンガでおぼえるタイプの英会話本」では、おぼえられない理由。
英会話本がたまって何となくごちゃついてきた書棚を整理していると、「島耕作の成功するビジネス英会話」というタイトルの本が棚の奥から出てきたので、なつかしくなってつい、読み直してしまいました。
いつ、どういう意図で買ったのかはまったくおぼえてませんが、奥付が初版1999年の第一刷ですから、どうやら8年近く前に、買った本のようです。
島耕作が課長の時です。今は昇進して、専務(常務?)でしたっけ。
ま、それはいいんですが、ともかく、「マンガの吹き出しの日本語のセリフを、ナチュラルな英語に置き換えたら、こうなるよ」というスタイルの英会話学習本です。
いまや購入動機などすっかり忘れてはいますが、推量するに、「ビジネスの英会話シーンで出てくるようなごく自然な英会話フレーズを、たくさんおぼえたい」、と思っていた矢先に、「マンガのセリフ形式でおぼえるならば、きっとごく自然にアタマの中に入ってくるだろう」という期待感から、これを買ったんじゃないかと、思うんですね。
ところが、ですね。
この本はいまだ持ってはいるものの、もくろみとしては大はずれで、これが全然、アタマに入ってこなかったんですよ。
二・三箇所アンダーラインを引いた跡があるものの、他のページは、もう新品同様にキレイです。
「こういうスタイルは自分に合わない」と途中で気がついて、さっさと止めちゃったんですね、きっと。
最初にお断りしておきますと、この本だけがどうこう、というんじゃないですよ。
途中で放り投げた本は、もう数知れずですし。それにこの本、内容自体はきっちりしてますから、ちゃんとやったら、もしかしてそれなりに効果があがったかもしれません。
ただ、このように「好きなマンガを使って、楽しく英語をおぼえよう」というスタイルそのものが自分にはダメだったのだと、今となっては思います。
効果がありそうに、当時は思えたんでしょうね。
ほら、「マンガやイラストなどの視覚イメージがセットになっていると、英単語もおぼえやすい」って、ちまたの英会話教材とかでもアドバイスされてませんか?
でも、ダメなんですよね。少なくとも、ワタクシの場合は。
あとで思いだすことができるのは、そのとき印象に残ったシーンの絵柄や構図だけなんですよ。
その絵にくっついてた英語のセリフがでてこないし、マンガで登場していておぼえたはずのそのフレーズが、いざ自分の日常の現実となると、ちっとも脳裏に浮かんでこない。
思うに、ですね。
たぶんマンガを使うと、アタマの中に思い描くイメージが、そのマンガの一コマの構図・風景にあまりにも強く固定されてしまって、他の似たような現実の場面に遭遇したときに、強烈な絵柄がいの一番に浮かんできてしまって、セットになっていたはずの英語フレーズがアタマの片隅に押しやられてしまうことで、真っ先にイメージするのが、かえって難しくなっているんじゃないか?
そんなふうに、ひとりよがりな仮説をたてているんですよね…。
「英語がうまい」の、意味するところを考える。
「あのヒトは英語が上手だ。」といった類の、ホメ言葉がありますよね。
はやくこう言われるようになりたいものだ、と内心思いながら、勉強を続けている方も、いらっしゃるかと思います。
ワタクシも、大学生の頃なぞは単純にそんなことを考えて、昼下がりの学食の片隅で、英単語帳などを広げていたものです。
いま振り返ってみると、「痩せたい」「お金持ちになりたい」「美しくなりたい」などと思うのと一緒で、そういうシンプルな願望を持つこと自体、それはそれで悪くないとは思うのですが。
ただ、よく考えてみると、これってあんまり芯のない、フワフワとした、今ひとつ掘り込みの浅い表現のような気もします。
これは最初の文の、「英語が」を「日本語が」に置き換えてみると、なんとなく共感いただけると思うのですが。
「あのヒトは日本語が上手だ。」
この場合、相手がノン・ジャパニーズの場合は、普通はストレートな賞賛となるわけですが、たいていの場合は、日本語会話がペラペラで、日本人的な感覚の機微にも通じているとこちら側が感じたような場合に、あまり深く追求もせずに、そのようにホメるケースが多いかと思います。
そうでしょう?
ところで、日本人である自分が、「日本語が上手だ」とホメられたとしたら、どうお感じになりますか?
「いや、だってオレ(ワタシ)、日本人だし…アタリマエじゃ?いったい何が上手だと思って、このヒトはホメてるんだろ?話し方かな?たとえ話が、ひょっとしてツボにはまったかな?それとも、話の中身が濃いということ?きれいな言葉使いでも、したかしら。そういや、遠縁がNHKのローカル局の元アナウンサーだったし、もしかして血筋ってヤツか?」などと、妄想を多少交えながらも、「日本語の『どこが』上手だったのか」についての具体的な追求を、アタマの中ではじめたりするんじゃないでしょうか。
最初の、ノン・ジャパニーズの日本語に対する賞賛と比べて、明らかにホメる対象が、より具体的で深いところの一部分を見ている、と思うんですね。
つまり、「自分の日本語の運用力の、どこか具体的な一部分が優れているからこそ、ホメられたのだ」と、反射的に思うわけですね。
これはすなわち、言葉は、そもそもこんな風に「分析的に評価する」ことが可能なものだ、ということです。
個別項目における評価ポイントの積み上げで、総合点がはじきだされるのであって、逆ではない。
最初に「アナタ、英語がウマイね。95点!」などと先に総合点をつけて、それから内訳を考えていくのは、理屈のうえではおかしいですよね…。
リスニングの題材に、「街中や雑踏での英会話」をあえて選ぼう。
前回、ネイティブが数名いるグループの中で行う英会話の機会をなるべく持ちたいという話を書いていた時に、ちょっと思い出したことがありますので、本日はその話をします。
リスニングの練習教材・題材は、ネットに無料でも高品質のものがあふれかえっていまし、英会話の本なども、いまやCDが付いていないモノがむしろ少なくなりつつある時勢ですので、リスニング練習の機会そのものは、事欠かないように思います。
ただ、ちまたのリスニング教材や題材は、まだまだ「ナチュラル・スピードによる録音か、会話スピードを学習用にスロー編集したものか」、という点で、区分けされているものが多いように思います(なかには、「2倍速録音」とか、耳慣らしを目的として会話のスピードを人工的にあげたものもありますが、これは分類上は、ナチュラル・スピードの教材に属すると考えていいでしょう)。
もちろん、英会話をはじめたばかりだし、現在の自分のリスニングレベルにあわせて…という気持ちもわかりますので、英会話はまだまだ初心者…という方は、最初のうちはゆっくりとした会話スピードの教材を使うのも、もちろんよいでしょう。
いずれは、ナチュラル・スピードでの聴き取り練習に移行するわけですし、聴いた内容を自分自身で理解できているか確認しながら進まないと不安…という方も、いるでしょうから。
ただ、ナチュラル・スピードかどうかという点以外にも、たとえ初心者の方であっても時々は、並行して意図的な聴き取り練習を行っておいたほうがよいシチュエーションがあります。
それは、「注意深く耳を傾けないと聴き取りにくい、街中や雑踏などの環境で展開される英会話」です。
英会話、三人以上でするグループ会話の経験を増やしたい。
英会話というと、ワリと1対1で行うイメージが、ふだん練習するときの場面想定として多いのではないでしょうか?
話し手のアナタと、聞き手のネイティブがいて、それが交互に入れ替わる…というパターンを頭に描いて練習するのが、普通だと思うんですが。
そもそも日本では、ふだんから英語で会話するチャンスそのものが少ないことに加えて、なかなかそういう状況が日常生活で出現しないのが普通だと思うんですよね。
なかにはもちろん、まわりにはネイティブの留学生やら職場の同僚がたくさんいて、グループミーティングの機会もしょっちゅうある、などというめぐまれた環境の方も、いらっしゃるでしょうけど。
ワタクシが以前勤めていた会社では、仕事柄、数名のネィティブとのミーティングを持つ機会や、休み時間などに雑談をする機会が、結構ありました。
その時のぼんやりした記憶では、「あ、手かげんされているな」(笑)と感じることが、ワリと多かったように思います。
たとえば、アメリカ人の編集者2名に混じって話をしている時は、こちらに話しかけるときだけは、しゃべりが若干不自然でスローダウンしているな、と感じていたわけです。
彼ら2名とも、こちらのリスニング・スピーキングの水準にあわせて、意図的にレベルをおとしてくれていたんだと思うんですね。
わざわざそのことを尋ねて、確かめたわけではないんですが。
または、彼らがワタクシに話しかける時は、ちゃんと内容を理解して受け答えもできるにもかかわらず、彼ら二人に会話が移ったとき、瞬間的に話されている内容がまったくわからず「??」となって、会話の流れから一瞬置いてきぼりをくったようになる状況になる時も、今となっては、結構あったように思います…。
続けることこそ、もっとも難しい。一年続いたら、お祝いしよう。
はやいもので、もうすぐ9月です。
一年もはや3分の2が過ぎ、あと残すところ4ヶ月です。
英語の勉強を新しく始めた…という皆さんの中には、なんとなく区切りがいいこともあって、年明けからとか、4月の入学・入社後から始めたヒトも、多いんじゃないでしょうか?
それだったら、新年を迎えてスタートした方は8ヶ月、4月から始められた方は5ヶ月、なんとかかんとか(笑)英語・英会話とつきあって、ここまでやってこられたわけですね。
このような英語ブログをチラッとでもご覧になっているということだけでも、あなたの中の「英語・英会話をモノにしてやる!」という気力の炎が、メラメラと(笑)いまだ尽きることなく燃えさかっていると、いうことですからね。
今日は特に、そういう方々に向かって、申し上げたいのですが。
学習をはじめたばかりの方は、そういうもんか?と思って、聞いてください。
たぶんまだ、全然ピンとこないと思うので。
ブログの「開設ごあいさつ」でも書いているとおり、ワタクシはずいぶんしつこく長い年月、英語の勉強をしてきています。
そして時々、つまるところ「英語・英会話をモノにするために、一番大事なことは何か?」ともし問われた時、ワタクシが自信をもって返せる答えは、もう一つしかないな、と思うようになっています。
それは「うまくなるまで、続けること。止めてしまわないこと。」
ただ、これだけなんじゃないのか?と、思うのです。
それくらい、普通のヒトにとっては、ひとつのことを自発的に、長い期間続けていくことが難しい。
ただ、続けるだけなのに…。
英語学習、「多産多死」を経てはじめて「多産少死」になる。
英語・英会話のブログではありますが、本日は人口構成の話から。
経済企画庁によれば、大正14(1925)年以前に生まれた人は、出生児数は多いが死亡率も高い、「多産多死型」の層に属しているとのことです。
明治・大正初期は、当時「産めよ増やせよ」の社会通念もむろん背景にあったと思いますが、平均寿命も今に比べると比較にならないくらい短く、また当時の医療水準もあって、「何人かを必ず残すことを目的として、そのためにも多く産む」という意味合いがあったのは、周知のとおりです。
今回、比ゆとしてもっとうまい言い回しが、どうにもほかに思いつかないので、この「多産多死」「多産少死」という表現を使いますが。
英語・英会話の学習でのインプットとアウトプットについても、いわばこの「多産多死」状態に陥ることを気にしてはいけない、別の言い方をすれば、「おぼえては忘れ、忘れてはおぼえる」というプロセスは、とりわけ学習の初期段階において必ず通過しなくてはならないのだ、とワタクシは思うのです。
むろん、目指すべきは「多産少死」状態、言い換えると、おぼえた英語表現や英単語等のほとんどすべてを血肉化して、いつでも好きなときにそれらをとりだし自在に使える水準の運用能力を、安定的に長期間維持することにあるのでしょう。
しかし、英語・英会話学習において、いきなりこの「多産少死」状態に到達することは、よほど頭の回転と記憶力にすぐれた人ならともかく、我々のようにせいぜい一日わずかの時間しか英語に接触しない場合には、その実現は難しいように思います。
英語に限らず、たいていの日本に暮らす人にとって、異質で非日常となる「外国語」をモノにしていこうとするときに、はじめのうちは異質の言葉が大量に注ぎ込まれることで、アタマの中ではある種の拒絶反応のようなものが起きている、と思うのですね。
だから、おぼえたそばから忘れていくのが、むしろ普通なのだと。
しかし、ここであきらめてしまうと、異質なものを完全に排除しきって、以前のアタマのコンディションをキープするだけで「はい、オシマイ」、となってしまう。
一方、あきらめずに学習を続けていくと、どうなるか…。
好きな英語の歌をひとり口ずさむことは、おすすめのスピーキング練習。
前回、英語で話す相手がいなければ、おひとり様でリスニングに励もう、それで十分うまくなるから、といった趣旨の話をしました。
ま、そのとおりなのですが、今一度読み返してみると、もうちょっと説明をつけ加えておいたほうがよいかな?と思いましたので、ちょっと書き足しておきます。
「スピーキングの練習相手がいなくたって、やりようはある」とは申しましたが、それはイコール「まったく英語を声にだしてしゃべる練習をせずともよい」、という趣旨ではありませんので、そこのところはお間違えなく。
いくらなんでも、ずっと黙ったまま、アタマの中だけで英語を飛び交わせているだけでは、発声練習をあまりに怠けすぎ。
いざホントに相手と話す段階で、口から言葉が思うようにでてこない…といったことにも、なりかねませんから。
最近、とある脳神経外科のお医者さんが書いた本を、読んだのですが。
それによれば、頭の中で考える部分、すなわち脳の「思考系」部分を活性化させるには、足・手・口などのいわゆる脳の「運動系」にあたる部分を意識して使うことが、やはり役立つようです。
そうすることで脳の血流がよくなり、情報を出し入れする機能も、総合的にパワーアップするんだそうです。
「思考系」部分の活性化のために、「運動系」機能との連携プレーが必要だそうで、特に会話の機会が少ない人は、「音読」を生活習慣に取り入れるとよいそうですよ。
ワタクシ、自分を振り返ってみれば、本格的にまとまった音読練習をした覚えはないのですが、新しいフレーズや発音しにくい単語をおぼえるときなどは、声に出して数回ブツブツ言ってみるくらいのことは、もちろんやっています。
フレーズを口にするときにはなるべく感情を込めて(「オォゥ、ゼェッツ、リディイキュルス!」といった風に)、単語を口にするときにはアクセント部分を強く押し出す感じで、ブツブツと「実際に口に出して」みるくらいのことは、練習相手がおらずとも、日頃から一応できる範囲ではやっているわけです。
さもないと、イザというときの一発勝負になってしまうし、会話嫌いな口重のオッサンになってしまっても、カッコ悪いしなぁ…などと、英会話と関係のない心配もあって、その回避のため、意識してやっている面もあるのですが。
「話す練習」の相手がいなくたって、「聴く」練習で会話力を伸ばせる。
今朝、新聞を開いてみると、小さな囲み記事を見つけました。
TOEICを実施する(財)国際ビジネスコミュニケーション協会が、20代から30代の四百名を対象に、ネットでアンケート調査を行った結果だそうです。
英語重要だが「何もせず」 ビジネスマン、OL対象の調査
(2007年8月19日付 北海道新聞)
400名という少なすぎるサンプル数でのネットアンケートなので、うのみにするわけにもいきませんが、要するに「英語は自分から話せるようになりたいが、その目的達成のための具体的アクションは、何もしていない。」ということのようです。
実はワタクシ、この「何もやっとらん」の部分は、たぶんにケンソンが混じっているんじゃないか?と思っているんですがね。
意外と(失礼)皆さん、それなりに、日々コツコツと、何かしらの勉強なり努力なりは、おそらくされていると思いますよ。
ただ「胸をはって、言うほどのものでも…」くらいに内心は思っているから、「何もしていない」のところに、とりあえずマークをしたんじゃないでしょうかね。
ま、それはいいとして、ちょっと興味深かったのが、英語の発信能力を伸ばすためにやっていることとして、一位回答の「何もしていない」の次、少ないながらも二位につけたのが「英語の話せる友人や恋人をつくる」というところ。
これには笑ってしまいました。
オイオイ、そんな打算的な恋愛や友情関係でイイのか?
そもそも相手にもすぐ見抜かれると思うんですけどね、「コイツ、英会話のトレーニングコーチ欲しさに、自分に接近しているな」、ということが。
ところで、実際問題として「何かはやっている」はずだと思うのですが、「英語の発信能力を鍛えるために必ずしも相手は必要ない」、ということは、ここで強調しておきたいですね。
ライティングのほうは説明せずともわかりますよね、一人でコツコツできる。
世間的には、「相手がいないとスピーキングの練習ができない→結果として、英会話がうまくならない」という考え方がまだはびこっているようですので、これを訂正しておきたいですね。
「話す練習」の相手なぞいなくたって、英会話は、かなりうまくなりますよ。
ワタクシもどちらかといえば、そのクチですし。
ま、ワタクシは置いとくとしても、世間でには、ネイティブとのスピーキング練習など経験せずとも、英会話にさほど不自由しない、俗に言う英語ペラペラの人や英語の達人などは、もういくらでもいますから。
だから、無理して「外人のオトモダチを急いで作らなきゃ!」などと、考える必要はまったくないんですよ。
頭でわかっているはずのことを、もう一度引っ張り出してやってみる。
あいわらず日本全国、酷暑モードですね。
さて、少し前の話になりますが、大リーグで活躍中の松坂について、ある評論家のコラム記事を、読んだことがあります。
うろ覚えですが、記事の中で、妙に印象に残った部分がありまして。
『松坂は、日本から来た評論家たちが、彼に対して何だかんだとアドバイスをするのを決してないがしろにせず、実に熱心に、耳を傾けて聞く。』のだそうです。
その評論家は、こんな風に話を続けていました;
『はっきり言って、松坂ほどのピッチャーに対して、外部の評論家が、アドバイスできるようなことはほとんど無いと言ってよいし、そもそも彼ほどのピッチャーになれば、評論家が指摘するようなことは、すべて自分自身が経験済みで、よく分かってることばかりのはずである。』
『それにも関わらず、松坂は実に熱心に、それら外からの言葉に、耳を傾ける。自分が頭でわかっていることを、外の声として、今一度確認し、実際にやってみるという姿勢を持てることこそが、彼の非凡なセンスを示しているのだ。』
だいたいこんな内容が書かれてあり、ナルホドね、と思ったものです。
考えてみると、英語・英会話の勉強にしても、たいていの人は、中学校ぐらいから何年もそれなりに、勉強を続けているわけで。
リスニングにせよスピークキングにせよ、上達のための効果的・効率的な勉強法については、たいていのやり方には触れて試してきたはずですし、「あ、その方法なら知ってる。」という状態にあると思います。
しかし、松坂と違って、我々凡人はどちらかというと、「あ、それ知ってる。」「あ、それもう、一回試した。」で話が終ってしまって、悲しいかな、そこから先へと、思考がなかなか伸びていかない。
自分の頭のなかで覚えているはずのことを、もう一度引っ張り出し、見つめ直して、やり方を変えて試してみたり、別のものと組み合わせてもう1度やってみたり、などということにまでは、なかなか思いが至らない。
そういう傾向が、どうしても、あるように思います。 …
英語がうまくなりたい人は、「目標」よりも「喜び」を大切に。
うだるような暑い日が続く中、早いものでお盆ウィークに突入ですね。
先日、本屋で英会話コーナーをブラブラみていたら、国際ジャーナリストの蟹瀬誠一さんが書いた「蟹瀬誠一が教える 日本人だけが知らなかった英語上達法 」(中経出版)という本があったので、立ち読みしていたんですが。
この本は、残念ながら、管理人オススメ本としてはノミネートされませんので(笑)、あえてリンクは貼りませんが。
では、なぜこの本を登場させたか?というと、ですね。
この本をパラパラとめくっていて目にとまった内容のなかに、「あぁ、同じような考え方をする人が、やっぱりいるんだな」と印象深く思う点が、ひとつあったからです。
それは、「英語の上達については、目標を作らなくても大丈夫、ちゃんと上達する」というくだりです。
これは兼ねてからワタクシも思っていたことでしたので、この記述部分を目にしたときは、思わず「そうそう」と、共感をおぼえました。
ちまたの英語・英会話教材や英会話スクール、TOEIC等の試験に関わる教材などもそうですが、どれも「期限」か「スコア」で一定の目標ラインを示して、そこに早くたどりつくように頑張りましょう、というスタイルのものが、実に多いじゃないですか。
「3ヶ月でスコア200点アップ、TOEIC800をとった秘訣!」とか、「1ヶ月で、ビジネス英語が難なく使える、魔法のカリキュラム!」といった感じの(今、適当に作ったタイトルですけど)。
忙しい現代、目標をはっきりさせて、時間的な締切を設けて何事もやったほうが成果が出る、という風潮が完全にできあがっているせいか、英語・英会話の習得アプローチも、ホントに、その手のものが多いですよね。
でも、そうまでしてキリキリと締切を設けて、テンションをあげて、かりに英語上達の目標ラインをクリアしたとして、そのあとはどうするんだろう?と、ずっと思っていました。
さらに高い目標を掲げて、またチャレンジするのでしょうか?
TOEICのスコアで800をクリアしたら、次は900だ!って感じで。
フルスコアに達したら、また別の目標を設けてこなしていくんでしょうか?
目標を設けて、次々とそれをこなしていくというアプローチは、短距離全力疾走を連続でやるようなもので、普通の人間なら、いつか事切れるよなぁ…と、思うわけです。
目標はクリアしてしまえばそれでよい、就職試験や昇進試験で必要なスコアをとってしまえば、後は英語は用無し…という人も、もちろんいるでしょうけど。
でも、そういう発想で英語に接している人が、その時に瞬間最大風速的に出した力を5年・10年後もキープできているか?といえば、おそらくそんなことはないわけです。
いったん自分の手中に収めたと確信をもてた英語・英会話力は、その力量・レベルはどれだけ時間がたっても、自分の能力としてずっと維持しておきたい、そしてできれば、それをさらに高めていきたい。
普通は、そう考えるものじゃないでしょうか?
外国人力士が日本語がうまいのは、アタリマエ。(3)
この間から続く話題の、最終回です。
「英語の四技能、聞く・話す・読む・書くがあるが、全部できなくてもいい。まずは、『聞く・話す』を覚えたい人が多いのだから、『読む・書く』は、必要に応じてやればいい。」という考え方について。
これについてはもう、「それは無理だろ」とツッコミを入れるしかないですね。
昔の日本にも、学校に行けなかったために、会話だけができて、文字が読めない・手紙が書けないという人が、農漁村などにたくさんいたようですから、「聞く・話す」だけマスターすることは人として不可能である、とまでは言いませんが…。
このコラムの筆者は、英語教育の世界でも、そのような二技能だけができるヒトの「英語版」を意図的に量産できるような教育内容に変更せよ、とでも言いたいのでしょうか?
外国語としての英語に接する際は、「聞く・話す」の二技能を学ぶ手段として、「読む・書く」も一体のものとして学んでいくことが、どうしても必要だとワタクシは思います。
英語に限らず、外国語の学習者にとっては、「聞く・話す・読む・書く」の四技能は、不即不離の関係にあるはずです。
「読む・書く」の勉強をしながら、「この単語、どうやって発音するんだ?」とか、「こないだあの外人が話していた時に使っていた表現って、もしかして、これかぁ」などと、「聞く・話す」の世界に思考が飛んでいく瞬間が、誰にもありますよね。
もちろん逆もまたしかりで、こうやって「聞く・話す・読む・書く」の四つに触れて、その中をぐるぐると行きつ戻りつする過程のなかで、コトバに対する感覚が育っていくのではないか、と思います。
4つとも勉強していくうちに、結果的に「話すのが不得意」「書くのだけは苦手」となってくる場合はあるでしょうが、最初から「聞く・話す」部分だけをしこたま勉強させて、その2技能だけ上達させようというアプローチは、そもそも高度情報化した現代の日本においては、物理的にもほとんど不可能ではないでしょうか。
紙とペンと本のない部屋で、ネイティブと一緒に24時間、3年くらい缶詰状態で生活したなら、あるいは、そういう特殊能力の持ち主になれるのかもしれませんが(笑)…。
外国人力士が日本語がうまいのは、アタリマエ。(2)
外国人力士が日本語がうまいことは驚くに値しない、という前回からの続きです(今回はじめて読まれる方は、前回もお読みくださいね。)
24時間日本語漬けの環境にいて、TVのインタビューで日本語でよどみなく受け答えするこのような外国人力士を見て、「日本の英語教育にも、活かせるヒントがある」、そして「本当に英語をモノにしたいのなら、『英語を学ぶ』ではなく、『英語で何かを学ぶ』精神でいくべきだ」と、この記事を寄稿された方は続けています。
この辺から、「エ、その結論、ちょっと違うかも?」と思ったわけですね。
まず、「日本の英語教育に活かせるヒント」とは、一体なんでしょうか。
記事を読む限りでは、ワタクシにはどうしても、「英語を集中的に使う環境のもとに学生たちを置いて、英語以外の何かを学ばせるやり方を、日本の英語教育にも取り入れていくべきだ」と言いたいように、読めてしまいます。
これは、まず現実問題として、日本の英語教育をそう持っていくこと自体が、かなり難しいですよね。
極論を言えば、そのためにはこの日本で「24時間えいご漬け」という環境を一定期間(最低でも1年くらい必要では)実現しなければならないと思いますが、英語の他にもいろいろ教えなければならない学校教育で、それをどうやって実現しろというのでしょうか?
それとも、よく英会話学校でやっている「レッスン中は日本語禁止」を、学校の授業に取り入れるということでしょうか?
効果ゼロとまでは言いませんけど、まず数年は様子を見ないと効果のほどは計れないでしょうし、とても日本語を流暢に話す外国人力士のようにはならない、と思いますよ。
だいたい、そんなに劇的な効果があがる方法なら、英会話学校ではそもそも採用されていないと思います。
生徒さんがすぐに英語をマスターして卒業してしまうと、彼らは経営的にあがったり(笑)ですからね…。
外国人力士が日本語がうまいのは、アタリマエ。(1)
今朝、新聞を開いてみると、以下のような内容のコラムが、目にとまりました。
どうやらコミュニケーションの専門家が寄稿したものらしいですが、英語・英会話を勉強する学習者にとって、なかなか興味深い「勘違い?」が記されていましたので、かいつまんでご紹介したいと思います。
まず、コラムに書かれていた内容をかいつまんで説明すると、こんな感じです。
・外国人力士のインタビューを聞いていると、その日本語のうまさにおどろく。
また逆に、海外で活躍している日本人選手が、イタリア語や中国語を流暢に話すことにも驚く。
・彼らは、外国語を学ぶために海外にいったわけではないのにもかかわらず、あんなに上手にしゃべれるようになった。勝負に賭ける過程で、相当な努力をしてあそこまでしゃべれるようになったのだ。
日本の英語教育にも、活かせるヒントがあるはずだ。
・英語の四技能、聞く・話す・読む・書くがあるが、全部できなくてもいい。
まずは、「聞く・話す」を覚えたい人が多いのだから、「読む・書く」は必要に応じてやればいい。
・本当に英語をモノにしたいのなら、「英語を学ぶ」ではなく、「英語で何かを学ぶ」精神でいくべきだ。
まとめると、ざっとこんなことが、書かれていました。
まぁ、確かに外国人力士のインタビューの受け答えなんかは、よどみがなくてたいしたもんだと思いますし、海外で活躍するイチローの英語・引退した中田ヒデのイタリア語、皆さん流暢で、すばらしいと思います。
そして、彼らが相当な努力をしてそれを身につけた、というところにも、異論はありません。
そこまではいいのですが、そこから導かれた結論が、惜しいことに「間違っている」と感じました。
まず、インタビューに出てくる外国人力士が日本語がうまいのは、誤解を恐れず言えば、ある意味アタリマエだと思うのです。
それは、彼らの日本語習得に費やした努力を否定するわけではないですし、むしろその結果として、あそこまでうまくなるのはきわめて当然なのだ、という意味です。
テレビでインタビューを受けるくらいですから、要するに「相撲が強い」わけですね。
では、どうしてそこまで、相撲が強くなったか…?
「やったつもり」は、結局は「やっていない」と同じ。
英語・英会話の本などもこれまでいろいろとご紹介していますが、ワタクシは個人的には、買ってきたそれらの本の英文に、マーカーや赤線を引っぱったり、あるいは英単語のところにグルグルと丸をしたりするのが、とても好きです。
いわゆる、本をきれいに読むタイプではなく、汚して読んだような気になっているタイプに、属しています。
ですので、語学関係の本に限っては、ブックオフ行きとなる可能性は最初からゼロですし、よほど駄作と判断したものを除いて、これまで語学関係で買った参考書は、ずっと手元に置いてあります。
ワタクシの手元には、もう10年以上前の英会話本が、いまだにたくさんあります。
それら古い本を引っ張り出してみると、10年以上前のかすれて変色したマーカーの跡が、あちこちの英文に、いっぱい引かれたままになっています。
が、それらのチェックした英文や英単語・フレーズを、じゃあ完全にモノにしているか?となると、まったくそんなことは無く、「なんでオレは、こんな英文に線を引いたんだろう」「この線を引いてある熟語、今はじめて見たような…」というモノに、実にたびたび、出くわします。
潜在記憶的は、「見たおぼえはあるが、忘れた」くらいのレベルにはなんとかたどり着いてほしいところですが、線がひっぱってあるにもかかわらず、もうまったく、見たおぼえがなかったりする。
ま、本の最終ページに至るまでマーカーの線を引ききることに夢中になり、中身がアタマに入っていない、ということを、はからずも証明しているわけですが。
ま、それは置いておくとして、本日メッセージをひとつ出すとするならば、「やったつもり」は、結局は「やっていない」んだよ、ということですかね。
日々の生活に英語を影のように寄り添わせる、ちょっとした工夫。(5)
英語を日々の生活の場面で意識するチャンスを増やし、英語・英会話力の長期的な向上につなげていくためのちょっとしたコツのようなものを、数回にわたってご紹介してきました。
このブログでもこれまで折に触れて書いてきましたが、フツーの人が外国語の勉強をはじめることを決意し、ネイティブ並とはいわずとも外国語としてほぼ不自由なく使いこなせる、俗に言う「英語をマスターした」レベルまで達することがムズカシイのは、なぜでしょうか?
細かい理由はいろいろ見つけられるでしょうが、根本をたどっていけば、つまるところ「英語を勉強するための投下時間量が、絶対的に少ない」ことにこそ、本当の理由があるのだとワタクシは思っています。
普通に働いたり、学校で授業を受けたりして、日々を忙しく生きるワレワレにとって、語学の勉強にあてるためのまとまった時間を一日の中からひねり出すことは、それだけ大変なことなのです。
一日の中で英語の勉強に時間を多くあてることがどうしたってできない、ごく普通の人にとっては、英語への投下時間量を増やすためには、たとえ少しずつでも長い年月、投げ出さずに英語の勉強を続けていくことしかありません。
そのために、それがイヤになったり飽きたりしないよう、日常生活で少しでも英語を楽しみ、アタマの片隅で意識し続けることは、とても大切だと思うのです。
ですので、これまで書いてきたような方法も参考にしていただいて、英語を自分の日々の生活でずーっと楽しんでいくようにするための、アナタなりの方法を、いくつか持ってほしいと思います。
で、もうひとつだけ、ワタクシがやっている、ちょっとした工夫を話しておきますね。…
日々の生活に英語を影のように寄り添わせる、ちょっとした工夫。(4)
「英語を日々の生活の場面で意識する、ちょっとした工夫シリーズ」の4回目。
本日は、「街中にあふれる英語の広告・看板を、なるべく読んでみること」がお題です。
ま、さすがに、これをやっている人は多いでしょうね。
だいたい、広告を出すほうも、英語で読んでほしいからわざわざ載っけている面もあるのでしょうから。
昔は、いや今でもかなりそうですが、ご存知のとおり、日本の広告・商品ロゴにおける英語コピーは、完全に「ハイカラな(死語)イメージを出すためのデザインの一記号」という位置づけにありました。
モロモロの日本の商品コピーなどでの英語のムチャクチャな使われ方については、以前も少し書きましたが、さすがに大企業の広告では、おかしな使われ方をすることがほぼ無くなってきているように思います。
でも、大企業のちゃんとした広告を除いては、まだまだ実情はひどいようですが…
えぇ、話を戻して。
テーマとしては、「日々の生活の場面で、いかに英語を意識しモチベーションをキープするか?」ということですので、街中にあふれかえる英語広告や英語表記を有効活用しないのは、あまりにもったいない。
ただし、間違いだらけであることも確かですので、じっくり英語コピーをにらんで表現を学び取ろうと思うことまでは、まずありません。
「これらの英語は、間違っているのがほぼ全部」と、最初から決めてかかって見て、間違い探しをしたり、もっといい表現はないか?などと、あれこれ考えて楽しむのが、個人的にはよいように思います。
ワタクシの住んでいる田舎を走っているJRの車両は旧型なせいか、いまだSmoking is prohibited in this train…などと馬鹿テイネイに長々と書いてあるものなども多くて、ボーっと目で追いながら「受動態か!」などと、タカトシ風にココロの中でひとりツッコんだりしてますが。
日々の生活に英語を影のように寄り添わせる、ちょっとした工夫。(3)
「英語を日々の生活の場面で意識する、ちょっとした工夫シリーズ」(笑)も三回目です。
このシリーズ、あと2回分くらいは、持ちネタがあるかな。
なにせ、自分が日常心がけてやっていることを、書いているだけですから(笑)。
さて、今日は、会社の仕事や学校、あるいは帰宅後にパソコンをよく使うヒトに向けた、小ネタです。
唐突ですが、調べものをするときの検索エンジンは、何を使っていますか?
やはりYahoo!でしょうかね。日本では、一番使われているそうですし…。
今日は、Googleの数あるツールの中の「Google翻訳」を、ちょっとした時にも使い倒しましょうね、というお題です。
「なんだ、翻訳かよ。それに自動翻訳だし、不正確じゃん…」と、思われましたか?
ま、とりあえず聞いてください。
このGoogle翻訳、日→英も英→日も(それ以外のパタンも、もちろんありますが)用意されていますが、もう絶対的なメリットというのは、その翻訳の手軽さと高速スピードにあるわけです。
やってみるとわかりますが、翻訳ソフトや辞書サイトを立ち上げて…となると、該当する単語や文章を探し、目的とするフレーズにたどり着くまでに、結構な時間がかかります。
Google翻訳は簡単。
この画面を、ちょっと見てください。
まず、「原文」ボックスの下にある設定を、「日本語から英語へ BETA」にセットしておきます。
(その下の「ウェブページを翻訳」は、今回のお題に関係ないのでどちらでもよいですが、ただし翻訳の精度自体は、メチャクチャ落ちますよ。)
そして画面右上の「翻訳ブックマークレットボタンをインストール」のページに行き、「日本語から英語へ」のリンクを、このページに書いてあるとおりの手順で、アナタのブラウザの「お気に入り」に追加しておくわけです。
ちなみに、アナタの「お気に入り」の一番上などに置いておくと、パッと使えるので、ベターかと思います。
これで設置完了。カンタンでしょ?
で、これをどう使うか、というとですね…。
日々の生活に英語を影のように寄り添わせる、ちょっとした工夫。(2)
前回に引き続いて、「英語を日々の生活の場面で意識する、ちょっとした工夫シリーズ」(笑)、第二回目であります。
たとえば、アナタが学校や会社から帰ってきて、珍しくも(笑)英語・英会話の本をひろげたとしますよね。
その後、一応は明日も勉強しようと思ってるけど、明日は明日の風が風が吹くということもあり、残業や突発事態が起きて、予定通りにはできないかもしれない。
イヤイヤ、明日だけじゃなくて、もし大きな仕事が入ったら、下手をすると三日くらいは、勉強には戻れないかもしれない。
そういうときには、本棚にその本をたたんで片づけてしまっては、ダメです。
イイですか。
ページのやったところまで、ポストイットや折り目などをつけて、そのままカバーを表にして、ひっくり返します。
そして、あなたがいつも勉強する場所、書斎や学習机のそばなど、なるべく目に留まりやすいところに、そのまま置いておく。
で、ここからが、ややオリジナルかと(笑)。
日々の生活に英語を影のように寄り添わせる、ちょっとした工夫。(1)
「えいご漬け」などという名前の英語の練習ソフトがありますが、普段、仕事や学校の課題に追われている身にとっては、現実的には、一日の大半をあてて英語・英会話の学習にどっぷりと漬かるというのは、なかなか難しいように思います。
この前も、とある英語関連サイトを見ていましたら、「人生の一時期に、一日二十四時間のほとんどをつぎ込むくらいのつもりで勉強しなければ、短期間で英語・英会話がうまくなることはない。」と、書いてありました。
確かにそれも真実ではあるのですが、現実にはそれができる状況に置かれた人がそうはいない、ということで、まぁ少なくとも、一般的な学習アプローチとは、言いがたいですよね。
私も、これまで何度か書いてきましたが、つまるところ、英語で触れる一日あたりの密度が薄くとも、学習期間そのものを長くしたことによって、英語の実力をあげてきたようなところがあるのですね。
ただ、今にして思えば、それができた理由のひとつとして、英語・英会話というものを、日常生活の断片において、絶やすことなく意識するように努めていたことが、大きいように思います。
英語・英会話のまとまった勉強を、長い間やらない時も結構ありましたが、なにかしら英語・英会話の存在を意識するような瞬間は日常生活においてわりとあった、いや正確に言えば、そういう瞬間をつくるように意識的に努めてきた、ことは確かです。
どんな環境に置かれている人でも、そのつもりでちょっと工夫すれば、いろいろと日常生活において英語を意識するための刺激になると思うのですよ。
これからご紹介するようなことは、ワタクシとしてはもう完全に習慣化しているのですが、英語を日々の生活の場面場面に意識するためのちょっとしたやり方を、そういうことで二つ三つ、ご紹介しておきたいと思います。
もしかしたら、同じような事やってる人は、意外と多いかもしれませんけどね。
まず一つ目。
「英語で考える」とかは、気にしなくてよい。(4)
前回までの話を、そろそろ「まとめ」にかかってみますね。
「英語で考えないと、英語はうまくならない」ということではなくて、「まず考えないと、英語はうまくならない」というのが、正しい言い回しだと思うのです。
「考えるときは、頭の中のイメージ優先でも、日本語を使ってある程度言いたいことを組み立ててもいい。
それを外に現す場合、考えた内容を英語に変換するときの技術を磨くことで、考えをより正確に表現できる」
というのが、ワレワレ日本の英語学習者にとって、より適したアプローチではないかと思います。
「英語で考える」を第一優先順位として、アタマの中で考えを組み立てるそもそものスタートから、無理に英語でやろうとすると、方向を間違えたまま走りだすことになります。
日本の話を英語で説明するとき、たとえば、小学生の「いじめ問題」について話すときは、英語で考えるということでなくて、自分がこれまでテレビや新聞、ご近所で実際にあった話など、自分が得てきた情報や感じた体験などをまずイメージとしてきちんと思い描くことをいの一番に優先して行うことこそ、必要なことです。
英語的なイメージにすぐに置き換えにくい内容も含んでいる場合は、それを頭から英語ワールド的発想で考えていこうとするやり方にこそ、無理があります。
この例でいうと、子供の「いじめ問題」は、海外でも別に珍しくない話で、それ自体はよくわかってもらえる話です。
しかし、ケータイをかなりの子供がもっていて、ケータイメールや、ケータイの持ち主のサイトの掲示板に悪口を書き込んでいじめる、なんていうのは、ある種、自分用のケータイを持つ子供がかなり多い、日本なりの背景だったりするわけです。
あくまでもひとつのタトエですが、仮にこういう話をする場合、日本的発想でイメージを描いたり、あるいは頭の中でいいたいことの筋を日本語でだいたい考えてから、「さて、あとは英語にして話すだけ。」という順番で会話するほうが、言いたいことをより正しく伝えることができるはず、と思うのです…。
「英語で考える」とかは、気にしなくてよい。(3)
「英語で考える」アプローチに対してはむかう(笑)コラムも、三日目となりました。
えぇと、最初に何か考えたり反応する段階では「アタマの中のもやっとした感覚」からスタートするわけで、ここに言語が介在するというわけでもない。
ここを「英語で考える」ように、アタマの中をなんとか作り変えなさい、ということ自体が、そもそも無茶な注文ではないか?ということで、結局のところ「言葉」のフィルターを通じて外の世界に自分の意思を表していく作業は、つまるところアタマの中の一番最後の「出口」の段階において行われるのだ、というような話を、ここまでしてきています。
ふぅ。
たとえていえば…最後の「出口」とは、水道の蛇口部分にあたるものでしょう。
そこから流れでてくる「水・水量」は、英語自体の勉強量も含めて、自分がそれまでの人生で身につけてきたすべて、自分の中に蓄積され、自分が積み重ねてきたすべて、ということになるんじゃないでしょうか。
「アタマの中のもやっとした感じ」を、言語でうまく伝えられないということは、いわば最後の水道の蛇口部分が、なんらかのつまりを起こしているようなものなのかも、しれません。
近頃ブームの、「幼少期から英語を習わせる」という行為も、このタトエにならえば、「自分というダム」にチョロチョロとしか水が溜まっていないのに、水がでてくる末端の蛇口部分に、立派なろ過装置をセットしにかかるようなものかも、しれません。
きれいな水が、蛇口から一瞬チョロッと流れてきて、コップ一杯も溜まらずに、すぐに止まってしまう。
それよりは、多少水が汚れていようとも、まずは肝心のダムにせっせと水を貯めることが必要ではありませんか?ということになると思うのですが、いかがでしょう。
そしてこのダムに水を貯めることこそが、上で書いた「アタマの中のもやっとした感じ」を発生させるための、ミナモトになってくると思うんですが。
さて、明日くらいでこのテーマも、なんとか「まとめ」に入ってみたいと思います。
「英語で考える」とかは、気にしなくてよい。(2)
英会話の瞬間に、自分のアタマの中で起きていることを、あくまでワタクシの場合ということでたどってみると、相手の言ったことに対して、自分の感情なり思考なりがピッと反応することが、まず最初にきているようです。
この瞬間は、相手のメッセージを処理するのに、日本語とか英語とかを用いてやっている感覚はなくて、ですね。
相手のメッセージをそのまま是認する「ON」スイッチが入るか、自分の考え方や感覚に何かがあわなくて逆立つ「OFF」スイッチになるか、まず自分の考え方や皮膚感覚的なものに照らして処理しようとする、なんとなく「もやっとした感じ・考え」が、一発目にきているように思います。
で、それを口から言葉としてだす、ほんとに最後の段階で、相手に応じて日本語で話したり、英語で話すように試みたりしている。
この一連の作業を、アタマの中で超高速というか、瞬時に行っているような気がします。
ですので、この最初にきている「アタマの中のもやっとした感じ」の段階では、必ずしも言語的に考えた処理を行っていないように、思うんですね。
ここの部分は、むしろ言語を飛び越えたイメージというか、ノンバーバルな何かなんじゃないか、という気が、強くしています。
別に大脳生理学上の根拠があるわけでもなんでもない、ただの「感じ・感覚」なんですが。
世間で俗にいう「英語で考える」アプローチは、どうもこの最初にわきおこる「アタマの中のもやっとした感覚」から、そもそも英語という言語を使って処理しろ・そしてそうなるように勉強なり練習なりをしろ、という主張のようにワタクシには聞こえます。
そこの部分は、「別に、その段階で英語を使って処理せずとも、もやっとした感じのままでイイんでないの?」というのが、ワタクシの思うところでして。
ま、言語的に処理できないと思うからこそ、「アタマの中のもやっとした感じ」などと、アイマイな言い方をしているわけなんですが。
その「アタマの中のもやっとした感じ」が口をついて外に出てくる最後の段階、最後の瞬間に、つまり「もやっと感・イメージ」が「言葉」というフィルターを通じてかたちをとるときに、日本語を通じて表現されるか、英語を通じて表現されるかの選択判断が、行われるのではないか。
すなわち、日本人にとって英語・英会話を学ぶということは、最後の「出口」の問題をどう考えるか、ということに大概なるのではないかと、思っているわけです。
また、明日に続きます。
「英語で考える」とかは、気にしなくてよい。(1)
だってソレ、ホントに英語で考えているかどうか、わかりませんから。
なんとなく、本人がそう思い込んでいるだけの場合もあるんじゃないの?とすら、ワタクシなどは、ウスウス思っています。
この「英語で考える」式のアプローチ、古くは故・松本 亨先生あたりから連綿と受け継がれている英語学習の考え方ですが、恐れ多くも、ツネヒゴロ「そうか?ホントか?」と思っていますので、今回はそのあたりを、数回にわけて多少書いてみたいと思います。
というのも、「こんだけ英語の勉強をしているのに、自分はまだ英語で考えるなんて境地は、全然ムリだぁ、オレはもうダメだぁ!」などと(笑)、悩んでおられる学習者の方が、ひょっとしたらいるかもしれない…と、思ったもので。
大丈夫ですって。
別に「英語で考えねば」などと力まずとも、バックボーンがしっかりしていれば、それなりに英語は上達するし、英会話だってうまくなりますから、というエールをおくってみたいというのが、今回の趣旨です。
ということで、別に「英語で考える」ことができる使い手の方たちに、それをヤメロといいたいわけでもないですし、ましてやその理論否定をしているわけでもアリマセン。
ただ、数十年英語の勉強を続ける学習者の一人として、自分の体験に照らして、『たとえ「英語で考える」ことはできずとも、英語なり英会話なりでなんとかコミュニケートしていくことは、できるだろう』という、個人的な思いについて多少書きしるしておこう、と思いたっただけです。
では、本人もどういう方向に行くのかわからないまま(笑)、つれづれなるままに、シリーズ連載でいってみたいと思います。
1,000フレーズから成る本を一冊読むより、200フレーズの本を四冊マスター。
これまで折をみてオススメ英会話本などを紹介してきていますが、ふと気がつくと、自分が紹介したものの中に、「必須英会話フレーズ200」とか、「この英語表現300をおぼえる!」といった雰囲気の、タイトル文章が「数」で終わるものが、意外に多いことに気がつきました。
人様にこういうものをすすめているということは、とりもなおさず自分がそういうのを好んで使っている、という面もあるわけですが(笑)。
実際、この手の、200とか300のフレーズ量で一冊が終わる本で勉強すると、自分自身で達成感を感じやすいというか、勉強の手ごたえを確認しやすい、というメリットがあるわけです。
まず、200とか300程度の英会話フレーズを覚えたことで、とりもなおさず1冊の本を読み終えたという実感がもてるし、読む前の自分と読んだ後の自分が違うような気になって、それが自信につながるという部分がありますからね。
これが、5,000から10,000フレーズを一冊でとなると、どうしても長期戦モードというか、下手をすると、3分の1ぐらい読んだところで、あえなく挫折…となりかねませんから。
まぁ当然ながら、一度や二度読んだぐらいでは頭に入るわけでもなし、反復練習というか、繰り返して読むことは必要ですが。
たとえば、1,000個の英会話フレーズを覚えるのに、こんなやり方などは、どうでしょうか…?
表現ミスや失敗を逆手にとって話をひっぱる、英会話のコツ。
時々、英会話のコツのようなものを、不定期で書いていますが。
今日のお題は、「表現ミスや失敗を逆手にとって話をひっぱる、英会話のコツ」です。
たとえば今、アナタが、ネイティブと英会話してる状況だとして、ですね。
当然ながら、いろいろとミスしたり、自分のいいたい表現が出てこない…といった状況に、アナタは直面するはずですよね。
で、たとえば何かを言い間違うか、あるいは言いよどむかして、会話の相手から"What you mean is...?"(それって、…っていうこと?)的に、尋ねられる場合がでてきます。
そのときに、「あっ、間違った!」と思ってカーッとなったり、内心ケッコー動揺してしまったりするヒトも、いるかと思うんですが、ここで、無理やり同じテーマのままで話を続けようとして力まないでいただきたい、わけですね。
このようなときは、あえて「シメタ、ここはチャンス!」という風に、発想を転換していただきたい。
どういうことかといいますと、そこからハナシの腰を一瞬だけ折って、『自分のやったその表現ミスや、出てこない表現そのものを、話題の中心に転じてしまう』んです。
日本語で書きますと、流れとして、こんな感じになります。
ネイティブ:「君の言いたいこと、わからない。それって、…って言うこと?」
アナタ:「そうそう。あ、こういうときは、そういう風に言うんだ。それ、…って言い方をしても、OKかな?」
ネイティブ:「うーん、そういう言い方は、普通しないねぇ。」
アナタ:「ふぅん、そうなんだ。単語はこの場合、××を使っても、OK?」
ネイティブ:「それは問題ないと思うよ。」
アナタ:「サンキュー、またヘンだったら、言ってよ。ところで、話をもとに戻すけどさ…」
と、いった調子です。なんとなく、おわかりいただけますでしょうか?
その、間違ったり言いよどんだりした表現や単語そのものを、もともとの話の中心のテーマから、ほんの一瞬だけ寄り道をして、話題の中心にしてしまう。
そうすると、こういった瞬間は、英会話を勉強としてとらえているアナタ自身の記憶に強く残りますし、会話そのものをなんとか切らずに進めることもできるわけですね。
英会話学校で講師とフリートークするときは、話相手の先生が、本題よりむしろそういう点に意識を向け、仕事として、こちらのミスなどをやんわり指摘したり、訂正したりしてくれるわけですが。
日常会話でそれをちょっと応用して、こちらから誘導して、表現のミスや適切な表現といったことについて、話し相手の意識を向けさせるわけです。
ま、しかしなんでも、物事はホドホドに…ということで。
あんまりこればっかり、連発しちゃいけないですよ。
いつまでも話の本題に戻れなくなったり、もともと何を話していたのかを、二人とも忘れちゃったりしますから。
それにやりすぎると、相手から「ボクは君の英会話の先生じゃないよ」と、むくれられちゃうかもしれませんしね。
あくまでも、話が途切れて、どうにも先に進めにくくなったときに使う、一つのコツとして、おぼえておくとよいと思います。
「たった×ヶ月で、英語がペラペラに!」なるわけがない(笑)。
人はどうしても、「新しいもの」と、「即効性をうたい文句にしたセールストーク」には、弱いものでして。
一般に、分野を問わず、サービスでも、商品でも、「たった×週間(×ヶ月)で、こんなに劇的な効果が!」とやられると、どうしても、「そうか、じゃあオレも…」と、思ってしまう。
英語・英会話の世界も、この例外ではありませんね。
ワタクシも、もう相当昔にはなりますが、そういうタイトルの英会話本は、何冊も買いましたね。
書棚のとある本を引っ張り出してみると、英会話が身につくまで最短で「3時間」でした(笑)。
まぁご存知のように、本のタイトルは、とにかく売れるようなタイトルに…ということで、一般に出版社がタイトルつける権限を持っており、著者の意見が反映されていることがむしろ少ないようです。
ですので、著者が思いきり吹きまくっているとも限らないし、本の内容としては、むしろ、しっかりした内容のものが多いです。
ただ、タイトルと中身が、まったく別物だ、というだけです。
ハッキリ断言しますけど、タイトルどおり、何日とか、何週間とかで英会話がペラペラになることなぞは、絶対にあり得ません。
英語ペラペラの定義・範囲を大きく下げる、あるいはこれまでまったくしゃべれない人が、片言でもしゃべれるようになる。という程度の効果なら、あるいは期待できるのでしょう。
ただ、英語ペラペラというのは、思うに、「二つのこと」が絶対に必要だと思います。
それは…。
英会話学校、通いたいなら、まず徹底的に調べる。
NOVAの件が、世間を騒がせていますが。
それにしても会員数45万人ですか。ものすごい生徒数ですね。
ワタクシの住んでる街の人口の、三倍近いや(笑)。
まあ幽霊会員さんも結構いると思いますけど、そんなに多くの人が英会話を身につけたいと思っているのかを想像すると、なにか不思議な感じすらします。
予約が取れないとか、中途解約料から帰って来ないとか、不誠実で糾弾されるべき問題であることは、言うまでもありません。
ただ、個人的な意見として述べますが、この件をもってして、「英会話学校に行っても高いお金だけとられて英会話が身につかず、まったく無駄に終わる」という風に、短絡的に見るべきではないと思います。
ワタクシは通ったことがないので、これまでの体験をベースに言うだけですが、この日本で、英語の上達だけを目的に、ネイティブと集中的に会話トレーニングができる環境は、英会話学校以外には探してもなかなか見つからないと思うんですね。
普通のネイティブは、自分が英会話の練習台にされていると感じたら、良い気持ちがしないはずですしね。
しかも、自分の英語表現や発音の欠点を指摘したり直してくれたり、さらにお金を投下していることによるテンションの高さが生む学習効果、なども考えると、この日本でそれを実現する環境としては、ちょっと英会話学校以外になかなか思いつかないんですが、どうでしょう。
ワタクシは、最初に60万も80万も払っておきながら中途解約をする人がこんなにも多いという事実のほうに、むしろ驚いています。
NOVAの肩を持つつもりは毛頭ありませんが、こんなに中途解約数が多いと、全員がやむを得ない事情の人ばかりだったとは、とても思えません。
今朝も、ある報道番組で、某女性人気タレントが、「40万払って、仕事が忙しくて結局3回くらいしか行かなかった」とか言ってましたが、おカネがもったいないとか、思わないんですかね。
授業料を払い込む前に、もっとよく調べて、自分が状況的に続けられそうかも含めて考えるべきでしょう。
あとはですね…
「上達した自分の姿」のイメージにつき、取扱注意のこと。
今から話すことは、別に英語・英会話だけに、限ったハナシではなくて。
およそ努力の積み重ねの結果として、技術的な向上が得られる分野なら、なんでもそうではないか、と思うのですが。
英語が通じたときの喜び、これは、ひとえに、「自分の英語で、コミュニケーションがとれた!」という嬉しさに、つきると思います。
しかしながら、自分の英語がうまく通じなかったとき、または自分の口からうまく文章が出てこなかったときの心の動きは、実は、その逆の「自分が、うまくコミュニケーションをとれなかった。」という悔しさ、ではないのですね。
これは実のところ、『自分が思い描いていたイメージを実現できなかった、自分のイメージと現実との間に、隔たりと落差があることをはっきり思い知った、悔しさと苦さ』なわけです。
うまくいったときといかなかったときの、アナタのココロの動きは、はっきり質が違うんです。
失敗したときは、相手とのことには、チラとも思いが至らないわけですな(笑)。
で、大事なことは、我々のそのイメージというのが、実にもろい、根拠のない、想像の産物に過ぎないことを、はっきり自覚することだと思うのです。
アナタの、そのイメージには、なんの根拠もないわけです。
だから、根拠がないものと現実との落差を嘆いてみたところで、意味がない。
アナタが、英会話の現場でうまくしゃべれなかったときには、うまく行った時の反対の感じ方、すなわち「なぜコミュニケーションできなかったのか」、という思いにまず至らないといけない。
発音がおかしかったのか、文章の組み立てがまずかったのか、単語の使い方がまずかったのか、それともTPOをわきまえなかったせいか、などなど。
そういうことをまず考えるほうが、頭の中で独り歩きしているイメージとの違いに、内心ひとりで腹を立てているよりも、アナタにとっては、ずっと有益なことだと思います。
ワタクシは、別にイメージ・トレーニングの専門家ではありませんが。
ただ、イメージをコントロールするというのは、どんな分野でも、相当に腕が立つというか、ベースとなる実力のレベルがかなり高いヒトにとって有効な作業になるのであって、初心者のイメージ・トレーニングは、相当に難しいんじゃないかと思います。
自分のイメージに、結局負けてしまう、というか。
昨日今日バットを持った人間が、ホームランのイメージ・トレーニングをいくらしたところで、かすりもしないのが、フツーなんじゃないですかね。
まずは、正しいバッティング・フォームとスイングを学んで、自分のそれがどうなのか?をチェックしない限りは、ヒットすら打てないよ、ということじゃないかと思います。
英会話の最中、つい日本語をはさみたくなる衝動を、グッとこらえる。
これは皆さん経験があるに決まっているというか、日本にいるネイティブと話すときにもう顕著ですが、どうしてもつい、日英チャンポンで話しますよね。
ネイティブの彼らも、親近感を示そうとしているのか、はたまた「簡単な日本語くらいは知っているんだよ」ということをアピールしたいのか、英語で話しつつも「ウレシイデス」「ドモアリガト」などと、カタコトの日本語をよくはさんできますから、まぁコレ自体は、オアイコの話ではあるんですが。
完全に日本語の通じない海外の環境下にいるのでもない限り、日英チャンポンで話す(speak in a mixture of Japanese and English)は、ある程度しかたのないことだとは、思うんですよ。
よく「日本語厳禁!」などと英会話学校でやってますが、その場だけそうしたところで、授業が終わって学校を離れると、またくだけちゃいますから、なかなか最初から最後まで英語一本というのは、難しいと思います。
それに、コミュニケーションという意味では、アナタの話し相手であるネイティブだって、簡単な日本語くらいは生活の利便上おぼえておいたほうがよいはずですから、少なくともお互いにとって不利益になるということは、ないでしょうし。
ただですね、日英チャンポンの会話自体は、ワタクシは許容範囲だとは思うのですが、英語で話している最中で途中や末尾に、急に日本語をつけるクセのあるヒト、いますよね?あれだけは、止めたほうがいいと思いますよ。
たとえば、こんな風に;
"You always say a thing like that...でしょう?”とか、
"The bar we went yesterday, you know...あー、あのバーの名前なんていったっけ?…あ、そうそう、「ポプラ」だよ、「ポプラ」。"There you were dead drunk, and..."とか。
こういう、一文の中に英語と日本語を混ぜ込んで話すのは、したくなったときはグッとこらえて、やめるようにしたほうがよいですよ。
自分自身にヘンな甘えグセがついてしまうから。
こういうクセがつくと、ココロの奥底で自身の英語表現に自信がないものだから、相手の日本語理解力に、ついイージーに頼ってしまう。
こういう、自分を妙な形で甘やかすクセがつくと、あとでなかなか完全にそのクセを直すのが、難しくなります。
そりゃ、自分が本当に英会話がうまくなりたいと思うなら、「日本語をまったく使わずに話すぞ!」という気概でやるのが、一番いいに決まってます。
しかし、上で書きましたように、なかなかそれを貫徹するというのも難しいでしょうから、せめて、
・英文は英文として、一文をきちんと完結させて話す。
・日本語は日本語で、ちゃんと日本語で通して、同じく完結させた一文で話す。
・それを守ったうえで、英語に多少日本語を織り交ぜて話すなら、まぁしょうがないか、
と思うわけです。
英会話がうまくなりたいなら、ささいなことですが、こういうことにも気を配る必要があることを、アタマの片隅に留めておいてくださいね。
より実践的な英会話学習のために、まず自分の現在の状況から出発する。
英会話がうまくなりたいと思って、ヒトはみな(笑)、一生懸命リスニングの勉強にはげんだり、NHKの英語講座をかけもちで聴いたり、英会話学校に通ったり、するわけですが。
しかし、たいがいの場合は、一定の表現パターンを数多く学び、自分の生活や状況に照らして、そのたくさんあるパターンの中から、自分に合っているものを選びとる。
英会話習得のための教材なりカリキュラムなりは、そういうのが少しでもやりやすくなるような観点から、企画・構成されているはずです。
というか、どうしても、そういう作りにならざるを得ないので。
理由はすこぶる簡単で、教える側は一主体なのに対して、その教えを受ける側(学ぶ我々の側)が不特定多数だから、です。
教える側からすると、学ぶ側の、的を絞りきれないわけです。
どうしても共通項を探しだして、最大公約数として落ち着きそうなところに、教材を構成せざるを得ない。
せいぜい、ジャンル・分野別に大きく、くくることで、そのくくりに所属する人に、より身近で利便性が高い内容にしていくところまでが、限界なわけです。
言いたいこと、おわかりいただけますでしょうか?
例をあげると、たとえば、会社の業務で英会話を学ぶ必要がでてきたときに、アナタがまず勉強するのは「ビジネス英語」のジャンルの中の、「会議・ミーティングによく使われる重要表現」というヤツになってくる、はずです。
「会議は何時からはじまりますか?」とか
「そのご提案は、社に持ち帰って検討したいと思います。」など、
数多くの会議表現のパターンを、最初にたくさん学んで(あるいは、学ぶよう誘導・指示・強制(笑)されて)、でも結局のところ、アナタが実際の場面で使うであろう表現は、その中から「アナタが関わる会社の会議の状況に、もっとも適した表現だけ」、ということに、おそらくはなるわけです。
で、その「アナタが関わる会社の会議の状況」は、アナタにしかわからない話であって、英会話教材や英会話学校は知る由もないですよ、ということを、言いたいわけです。
ここまでは、きわめてあたり前の話ですよね。
(3)英語・英会話の習得プロセス、三通りのどれを選ぶか。
さて最後に、英語・英会話の習得プロセスの三番目の行き方について、触れておきます。
これは、一定の限界線を自分で決めて、その水準に達したら、もうそれ以上深入りして勉強することを、あえてやめるやり方です。
英語・英会話を人生のスパイス・趣味程度に考え、ペラペラになってやろうなどと、いわば野心は持たない。
人生の一時期とはいえ、英語の勉強だけでシンドイ思いをするのも嫌だし、かといって長い年月ずっと、英語の辞書だの単語帳だのとつきあうのもイヤだ。
こういう人は、自分の英語の上達に関しては、もう自分で定めた一定のレベルまできたなら、このレベルが維持できればもういい、と割り切って、あとは力があまり落ちないよう、たまに英語に触れておく程度にするわけですね。
アイサツができればいいとか、旅先で簡単な会話ができる程度でいいとか、そういうところであえて踏みとどまるわけです。
毎日忙しいのだから、英語や英会話だけの勉強にあんまり時間を使うわけにもいかない。
そういう人は、こういう趣味レベルにとどめておくやり方も、一つの選択だと思います。
ちなみに、ワタクシはフランス語もちょっとかじっておりまして、フランス語に関しては、この三番目のやり方でやってきています。
旅先で旅行会話ができる程度、スーパーで簡単な買い物ができて、メニューが読める程度。うまくなったとしても、美術館で絵の横の説明をある程度まで読めるレベル(絵を見るのが好きなので)。
このあたりを、フランス語の習得目標の上限に置いています。
仏検3級は既に持っていますが、水準的には仏検2級と3級の真ん中あたりが到達目標の上限になるかな?とばくぜんと思っています。
こんな風に目標を限定してはいるものの、まだ相当に時間がかかりそうですが(笑)。
ま、そんなことはいいとして…。
(2)英語・英会話の習得プロセス、三通りのどれを選ぶか。
いやぁ、もう5月も終わりですね。
また猛暑日のつづく毎日が、すぐそこですかねぇ。
さて、昨日の続きです。
英語・英会話の習得プロセス、おおまかに三通りの行き方があるという話をしました。
ひとつは、最初から正確な、TPOを踏まえた英語にこだわって学ぶやり方。
これは最終的には高い実力が得られるものの、なにせ膨大な時間がかかります。
なぜなら、英語圏に属さない私たちにとっては、「何が正しいか、適切か」を知ろうとすることは、裏返せば「正しくない表現、不適切な表現は何なのか、それらの何が、なぜ、問題なのか」についても、あわせて学ぶ必要があるからです。
一の知識を得るのに、二も三も学ぶ必要があるとなると、当然時間がかかるわけですね。
二つ目は、ミスなど気にせず、場数を踏むことを優先する、「習うより慣れろ」式のアプローチ。
英会話に限って言えば、このやり方で、かなりうまくはなります。
そうなってくれないと、英会話学校がこんなに繁盛しているはずもないですしね(笑)。
ただし粗いぶん、このやり方だけでいくと「いいたいことは通じても、どこか幼稚な、洗練されていない英語」が身についてしまう可能性大です。
基礎をおろそかに扱っている代償、ということになりますね。
英語・英会話の勉強をはじめてそんなに時間がたっていないけれど、とにもかくにも今よりはうまくなりたいんだ!という方は、二つ目のやり方をベースにしながら、自分なりに目の粗いところを修正していくアプローチのほうが、良いように思います。
本当は一つ目のやり方のほうをオススメしたいところですが、なにせこちらだと、肝心のモチベーションのほうが続かない可能性が高い。
誰にでもあったやり方、というわけではないように思います。
ただし、「自分は一生、英語の勉強を続けて、最終的にはペラペラの、話せて書ける日本人になりたいんだ!」という強い決意の持ち主には、ワタクシとしてはやはり一つ目のやり方を、オススメしますけどね。
もうひとつ、この二つ目のやり方の欠点は…。
(1)英語・英会話の習得プロセス、三通りのどれを選ぶか。
一口に英語・英会話の勉強といっても、どういうプロセスをたどって勉強していくかということで、最終的に自分が得るものがどの程度のものになるのかが、ある程度決まってくるように思います。
読み・書き・聞く・話すのどれをとっても、量をこなすというか、場数を踏まないといけないことは確かなのですが、キーとなるのは「正しい、適切な英語」にどこまでこだわるか、という点にあるのではないかと思います。
たとえば、以前も「日本人に共通する英語の間違い」的な本に、学習の最初の段階ではこだわらない方がいい、と書きましたが。
それは、そういった本の有用性そのものを、別に否定したわけではありません。
ただ、そういうアプローチにとらわれすぎると、正しい英語、美しい英語、パーフェクトな英語の追求に関心が強く向かってしまい、おそらくは勉強の手が止まります。
要するに、疲れてしまうのですね。
極論を言えば、日本人にとってやっかいな"a"と"the"の問題。
そもそも中学校の1発目習うにもかかわらず、完璧に使いこなせる日本人など、まぁほとんどいないのではないかと思います。
この"a"と"the"は、日本語で言えば、いわば「てにをは」に相当するものですが、「てにをは」を完全に使いこなせる外人さんに、めったにお目にかかれないようなものですね。
英語・英会話を勉強する時の習得プロセスを、大雑把に分けてみると、三通りになるのかなと思います。
ひとつは…。
まわりの同僚・友人・家族に置き換えて、表現を練習してみる。
英会話の練習法として、ちょっとした小ネタの紹介です。
知っている人はとうにやっていることとは思いますが、意外と気づいていない人もいるようですので。
たとえば、「彼は本当に気難しい」 He is so difficult.という表現があったとして、この場合、「彼」をHeとして、「彼」のままにして覚えていませんか。
こういった英会話表現集で書かれている「彼」や「彼女」、あるいは向こうの個人名であるGeorgeやSaraといった、いわば汎用的な行為主体を、自分を取りまく具体的な人物像や日常環境に置き換え、その例文を作り直して、覚えていく。
こういうのは、意外と記憶の定着に役立つものです。
一番てっとり早いのは、自分の勤める会社・職場の同僚に、置き換えてみることですね。
きっとあなたの周りにも、それぞれ個性・特長を持った人たちが働いているに決まってますから(笑)、その人のキャラクターを、あたかも入りたての新入社員に英語で説明するつもりで、頭の中で英語文に置き換えて、覚えていく。
上の例文でいうと、もしあなたの上司の小沢部長が(仮名です、念のため。)気難しいことで知られているとするなら、「小沢課長は本当に気難しい。いやんなっちゃうよ。」という文章に置き換え、吐き捨てるようにして(笑)、何回かつぶやいてみる。
ただし、アナタの安全のためにも、当然、本人のいないところでやる方がいいでしょう。
頭の中で、小沢部長の顔や表情や、普段の仕草をイメージし、思い起こしながら練習すると、さらに効果的でしょう。
同じように、ちょっとしたことですぐ切れて怒り出す安倍社長、いつも駄洒落がスベる向かいの机の麻生君(すべて仮名ですから。)など、いくらでも思いつくでしょう。
人物描写の表現は、英会話で実際よく登場するところですから、表現のバリエーションが豊富であるにこしたことはありません。
職場の同僚編、家庭編、好きなタレント編、行きつけの店編、など、応用も効きやすいですし、いろいろと試してみましょう。
ただし、うっかり聞かれてしまって本人にばれないよう、練習のときはくれぐれも気をつけましょう。
アナタの横の、日本語ですら意味不明のグチをいうその上司が、実は退社後に英会話学校にこっそり通って、ひそかに牙を研いでいるかもしれませんしねぇ…。
英語・英会話を学ぶ時の自分の立ち位置を、ちゃんと決める。
昨日は少し早く寝てしまったら、午前3時というヘンな時間帯に目がさめてしまい、目が冴えてしまったので起き出してPCを立ち上げ、先ほどまで色々な英語ブログを、見るともなくいろいろと見ておりました。
あれですね、改めて言うまでもないですが、こうしてみると英語ブログといっても、実に様々なジャンルがありますね。
英会話の重要フレーズといった定番以外にも、ドラマや歌の英語解説から、文法の掘り下げや英検・TOEIC対策、洋書・個人的な勉強記録・英語日記、子供の英語教育に至るまで、もう様々であります。
まぁ中には、妙な色モノ?もありますが(笑)、内容的に充実したかなり参考になりそうなサイトもたくさんあり、ホントに目移りしちゃいますね。
自分の人生において、実にいろいろな目的を持って、英語・英会話というものにかかわっていこうとしている人たちが、こんなにもたくさんいるのだなぁ…と、なんというか、感心してしまいました。
でも一方で、途中で目移りしたり他のジャンルに迷い込んだりで、英語・英会話を続けることをあきらめてしまう人もかなり多いんだろうな…とも思いましたね。
海外に行かずに英語を勉強しているアナタへの、おすすめサイト。
ひさびさに良い英語サイトを見つけましたので、ご紹介したいと思います。
ネットでこんなに内容の濃い情報を、しかも無料で読めてしまうなんて、今はつくづくいい時代だなぁと、ホントに思うんですよ。
ワタクシが中学・高校の頃、英語が上手くなりたくて仕方なかった時に、こんなコンテンツを読むことができていたなら、当時もうちょっと自信を持って、英語というものに取り組めていたかもしれません。
そのサイトは、これ↓です。
英語の冒険
英語の冒険2
このサイト、どうやら1998年からのようですので、書きはじめてからもう10年近くになるんですね…10年近くウェブの更新をしているだけでも、尊敬に値しますね(笑)。見習いたいものです。
このサイトの筆者である高野さん、「本格的に英会話をはじめたのは40代後半になってから」と書かれていらっしゃいますが、40代半ば近いワタクシにとっては、親近感のわく話でもあります。
「はじめるのに、遅すぎるということはない」という、生きた見本でもありますね。
スタートが10年近く前ということで、積み重なってものすごい文章量・情報量になっています。
とても一度に読める分量ではないので、たとえば仕事場のお昼休みに2トピックずつとか、そんな感じで少しづつ読んでいくのも、よいかもしれませんね。
以前、「アメリカ英語とイギリス英語の違いを学ぶには、この本で。」のところでも書きましたが、外国語を話したければ、結局はその国の文化や慣習や生活に半身を預けるつもりで、英単語や英会話表現以外のことを、色々と学ぶ必要がでてきます。
高野さんが暮らすアメリカの日々を通じて、日本人の目線で、「サバイバル・ガイド」となって、アメリカ、そして英語について様々に語りかけるこのサイトは、この日本でそれを実行するのに、まさにぴったりです。
アナタがこのサイトを全部読み終わる頃には、今この瞬間アメリカに行ったとしても、そのまま問題なく暮らしていけるような、そんな気分になっているかもしれませんよ。
「電報会話」を卒業しないと、英会話はうまくならない。
これを書いている今は、夜も10時過ぎ。
日曜日も、もう終わろうとしています。
「また明日会社だぁ、日曜の夜はいつも、ゆううつだよ…」という方も、結構いらっしゃるんでしょうねぇ。
で、週明けによく職場の同僚などと、「この土日、どうしてた?」という類の会話をするじゃないですか。
そういう時はいったい、どう答えてます?
土日はお遊びのスケジュールがみっちり時間単位で詰まってて、もー遊び疲れてクタクタ…という人ばかりでもないでしょうからね。
ここでありがちな返答として、「ん…別にぃ。家でゴロ寝してた。」とか、「土曜に飲みに行ったねぇ。で、日曜はまぁブラブラ。」とかいう、もう電報みたいな答え方をしていませんか?
こういう人、かなり多いように思うんですが…。
いい悪いの話ではなく、普段からこういう日本語での会話に慣れているヒトは、いざ英語で話さなきゃならない時には、相当苦労することになるだろう…ということは、知っていてもいいかもしれません。
しょせんは島国で同質的生活を営む、私たち日本人。
その上、つき合わせる顔ぶれがいつも変わらない会社生活となると、基本的に最小限度のコトバの交換で間に合ってしまうというか、すべてわかってしまうので、まぁよく言えば非常にラクチンなわけです。
でも、アナタが英語で話す時、たいがいの場合、相手のネイティブはアナタほど恵まれたコミュニケーションの環境を共有していないわけですからね。
日本語の感覚のままで、"...mm. Nothing in particular."とかやっちゃうと、相手の英米人からは「このヒトは、私のことが嫌いなのだろうか?」「もうこのヒトとは、挨拶程度の付き合いにしておこう」と、思われるのがオチです。
なにせ向こうの人たちは、基本的傾向として、よくしゃべるんですから。
「そうならないために、高いおカネを出して英会話学校に通っとるんじゃ!」と言いたいところでしょうが、ま、ポイントは「普段から日本語で節約した会話をしているヒトが、英会話の場面でとたんに饒舌になることは、まずありえない」ということです。
慣れないことをすると、退化した口元の筋肉が翌日筋肉痛で、ゴワゴワになってしまいますから。
ですから、英語がうまくなりたいアナタは、日本語でちゃんとした会話ができるヒトになっている必要があります、マジメな話。
いきなり話し上手になれ、ということではなく、まずは自分なりに少しずつ「電報会話」から卒業することを考えること(イマドキ「電報」かよ…って?)。
そして次に、自分が話すコトバの量を増やすことを意識しつつ、相手の話もよく聞いて、質問も返し、会話のキャッチボールを心がける。
日本語の会話が、英会話が上手くなるためには大事なんだ、ということです。
ま、アナタが職場の同僚から「少し黙っててくれない?」と言われるくらいよくしゃべるタイプなら、こんな話は大きなお世話というところですけど、ね(笑)。
(3)「英語マニア」に、なってはいけない。
昨日からの続き、今日で最後です。
これまでは、「アイツ、英語で文章を書かしてみたら、そりゃあ立派なものを書くけど、しゃべりのほうはさっぱりなんだよな」とか、「英会話は上手だけど、英文で書いたものは、どうにもミスだらけだねぇ」といった言い回しは、私たち完璧主義型の日本人にとっては、どちらかといえば、批判的なニュアンス・文脈のもとで、語られていたように思います。
まるで、読み・書き・聞き・話すの4つが分離不可能な1セットで、どれも達者でなければ、外国語学習者にとってのいわば「勲章」ともなる「英語ができる」という評価を、与えてはならないかのような。
ワタクシがいいたいのは、このような言い回しは、その人の英語の力量を極めて前向きに評価した「最大限のほめ言葉」として社会的にも扱われるべきで、むしろ誇りに思うべきことではないの?と、いうことなのです。
英語圏に属さない我々日本人にとっては、4技能のうち一つでも二つでも、外国語学習者として抜きん出た技量を持つことだけで、すなわち「英語ができる」ことなのじゃないか、と。
4技能とも全部水準に達しないと英語ができたことにはならない、というある種の先入観。
これは、文部科学省の方針のもと、ワタクシたちが小・中・高と一貫して受けてきた学校の英語教育において刷り込まれてきた、いわば理想像だと思うのですが。
そしてそれだけに、この観念というかイメージから、英語学習者である自分自身を解放することは、なかなか簡単ではないように思います。
でもねぇ…。
(2)「英語マニア」に、なってはいけない。
昨日の続きです。
英語も言葉である以上、「読み・書き・聞く・話す」の4技能を本当の意味で自在に使いこなせるようになるためには、たぶん原理的に、膨大な時間が必要なはずです。
それは我々が日本語を習得する過程で、誰もが無意識のうちに、わかっているはずのことです。
やり方によって、かかる時間が短縮される、ある程度効率化される、ということも確かにあるでしょうが、よく英語教材の宣伝にあるように「たった×日で(あるいは×ヶ月で)英語がペラペラになった!」というのは、やはり宣伝としてとらえておかないと、後でそれを信じた自分がガッカリするハメになります。
例えば、日本語の達者な英会話学校の先生とか、テレビで流ちょうな大阪弁を操る英米人のタレントさん、いますよね?
とらえ違いをしてはいけないのは、たいていの場合、彼らが上手なのは「日本語の日常会話を聞き、話すこと」なのであって、「日本語そのもの」が達者なわけではないことです。
「話し」「聞く」だけでなく、「読み」「書き」もちゃんとできて、はじめて「日本語を知っている」ことになるわけですからね。
彼らにペンを持たせて、日本語で長い文章を書いてもらうと、たいていの場合、そのことは比較的容易にはっきりします。
その流ちょうな会話に比べて、意味は伝わっても、彼らの書いた日本語の文章がひどくつたないことは、そう珍しくありません。
ワタクシが以前勤務していた会社でも、流ちょうな日本語で日本人と何十分も言い争いができる同僚の英米人スタッフが、何人もいました。
しかし、彼らが書いた文章を見て、その会話の知的水準に比べ段違いにたどたどしい、子供の日記のような文体に、よくびっくりしていたものです(念のため、彼らが母国語で書いた文章は、当然にその高い知的水準が見事に表現されていました。あくまで彼らにとり異国の言葉である、日本語で書いた場合です)。
これから、ひとつはっきりわかることがあります。
それは…。
(1)「英語マニア」に、なってはいけない。
マニア。 mania。 「過度に熱中している状態」。
ちなみに、語尾にこの-maniaをつけると、「…かぶれ、…熱中症」といったような意味になります。
collecting maniaなら、「収集狂」。
というような、マメ知識を書きたいんじゃなくてですね。
要するに、英語の勉強はあんまり自分自身没入した状態でやらないほうがいいというか、気持ちをある程度軽く持ってやるようにしたほうがいい、というお話です。
(ただし、同時通訳者等、英語で食べていくプロフェッショナルの使い手を私は目指す!という人だけは、この話の対象から除外します。そういう人は逆に、英語=わが人生、位までもっていかないとプロとしては困りますからね。)
言葉というのはなかなか崇高な側面がありまして、学ぶ時にも敬意を持って接しなければならないと思うわけです。
だから上達したければ、表現の細かい違いにも気を配らなくてはなりませんし、発音の微妙な違いにも気をつけなければいけない。
しかし、だからといって言葉の習得に深入りしすぎたら、迷宮に突入です。
目配りし、覚えなくてはいけないことなんて、山ほどあるわけです。
ある意味、砂漠に入って砂をスコップでかきだし、平地にしてしまおうっていう位に、気の遠くなるような作業です。
こうなってくると、必ずや、ものすごい時間とお金を投入し、本人が意識するとしないとに関わらず、ほとんど英語漬けの毎日状態になってしまうヒトがでてくるんですね。
あり得ないって、笑いますか?
でも、現実に…。
GW中はひとつ英語の勉強でも、と奇特にも(笑)思ってる方に。
まずまず天候に恵まれそうな、今年のゴールデン・ウイーク。
今年のゴールデンウイークも、なかなかうまいこと、まとまりましたね。
週明けの月・火曜日を休めると、今日から最大、9連休にもなります。
絶好の旅行日和の中、そんなヤツいるのか?という、根本的なハナシは置いといてもですね。
ゴールデンウイーク中に長期旅行に出かける予定のない方、連休明けまでに、使える英会話フレーズ本を一冊マスターするなんて、実力アップに向けた手頃な目標で、いいんじゃないでしょうか(笑)。
そんなアナタのために、ほどよい達成感の持てる英会話フレーズ集を、管理人ドナのライブラリーの中から、一冊ご紹介しましょう。
このひと言で伝わる!NHKラジオ英会話一発表現300 (大杉正明、日本放送出版協会 1,365円)
4月25日の日記でご紹介した「コレ英語で言ってみよう!」もオススメですが、あれより65フレーズ少ない、300の使える英会話表現が集められています。
初版が1997年と今から10年前ですが、これはワタクシが発売と同時に買って、当時懸命に丸暗記を試みた、実は、個人的に思い出深い本です。
この掲載フレーズの日本語を、英語で1秒以内に言えるように、チェックマークを塗りつぶしながら、練習したものでした。
このフレーズと一字一句同じとはいきませんけど、この300の表現が完全に自分の血肉となった今、英語で会話していても、「あ、いま口からでた表現、この本で覚えたフレーズだよ」などと、実感すること度々です。
英会話が上手くなりたいヒトに、おススメの一冊であります。
で、征服計画ですが。
例えば、明日からはじめて、連休最終日の来週5月6日まで、8日間ありますので、1日50フレーズ×6日間で一通り読みきる、というのはいかがでしょうか?
大丈夫、ワンフレーズが短いから、50フレーズといっても、思っているほど時間はかかりません。
残った二日間は、復習にあてることにします。
または、一日はお休み、一日は復習、そして一週間後の日曜日に、もう一度復習。
こんな感じでも、いいかもしれませんね。
この本、ただ一つの弱点が、対応リスニング教材が、どうやらカセットテープしか用意されていないこと。
NHK出版さん、イマ時はやっぱり、CDでしょう…CD化をお願いしますよぉ。
旅行は一時の感動ですけど、こういうのは一生モンですよ…っていっても、皆さん、やっぱり外に遊びに行っちゃうんでしょうけどね(笑)。
英語表現のバリエーションを増やすための、おススメ本。
以前の記事で、英会話表現のパターンフレーズを、バリエーションを豊富にして(英語は、同じ表現の単調な繰り返しを避けたがる言葉です)仕込んでおこう、という趣旨のことを書きましたが。
そのパターンを仕込むのにおススメの本を、ワタクシの本棚から、折に触れ、ご紹介していきたいと思います。
「コレ英語で言ってみよう!」(岩村圭南、アルク、1,029円)
対象者はTOEICスコア300程度以上の初心者から、となっており、実用的なショートフレーズを、効率的に覚えられる本です。
ここに載っているフレーズをすべて、日英で自在にスパッと言える位になればなかなかたいしたものだと思います。
何よりも、コンテンツが分量的にホド良いのが、おススメする理由です。
あんまり分厚い本だと、やる前からくじけちゃいそうになりますからね。
この本は365フレーズを、12ラウンドにわけて編集してあり、ちょうど1日1フレーズで、12ヶ月365日で読了、というサイクルに設定されています。
一週間で1ラウンドずつやって、3ヶ月でマスター等、自分のペースにあわせての目標設定がしやすい、この手の英会話フレーズ本を、一つずつ征服していくことで、徐々に自信もついてきますよ。
各ラウンドごとに復習用のミニテストもついていて、付属の赤の目隠しシートを使いながら、自分が英語フレーズをちゃんと覚えているかのチェックもでき、細かい点に工夫が行き届いています。
「数・数字の英語」を勉強しておくと、いつか効いてくる。
英語・英会話の勉強において(いや、正しくは外国語の勉強において、なのですが)、ひとつ知っておいていいことがあります。
それは、英語・英会話の本当の達人は、例外なく「数・数字の英語」について強い、という事実です。
これは俗にいう「数字に強い」、という意味ではなくて、英語で書いたりしゃべったりするときに、どういう状況下・単位で数字が登場しても、即座に英語で言い表せるかどうか、という意味です。
実は逆もしかりで、日本での滞在が相当長く日本語をかなり上手にしゃべる英米人なども、数字のところだけは英語でしゃべっている人が珍しくないです。
理由はよくわかりませんが、桁数の長い数字などは単位の違いもあってか、頭の中でそれだけ、変換に時間とエネルギーを要するのかもしれません。
また、数字はそれ単独でなく、たいていセットとなる言い回し・単位を伴って使われることが多く、日常会話にもよくでてくるので、そういう数字がらみの言い回しをパターンとして覚えておくと、思ったよりずっと役にたつ機会が多く訪れます。
例えば、「その薬は一日2錠、3回服用」とか、「私は1970年、つまり昭和45年生まれだ」といった言い回しなど、会話にひんぱんにでてきますよね。
また、もっと言えば単位の違いと、あと日本人にとってのなじみのある無し、というのでも、とっつきにくさが変わってくるものもあります。
例えばpint(パイント)などは料理でよく使われますが、料理をやらないオジサン達にとっては、割となじみ薄ではないでしょうかね。(よくパブでビールを飲む方などは別として・笑)。
それに1pintは、英語では1.25ポンド、米語では1ポンドを意味するのですが、こういう米英の違いでややこしいものもあります。
ということで、「数・数字の英語」については、機会をみてまとめて表現パターン、単位としての知識を仕込んでおくと、後々の勉強に効いてくる、ということは、これから勉強を続けていく上で、頭の片隅に入れておいていただくとよいと思います。
英会話、話すときは「短く、短く。」と念じよう。
このブログでもずっと、英会話を勉強するにあたってのコツ、例えば
「まず、表現のバリエーションを増やしておこう」とか、
「あいづちとあいさつを大事にしよう」とか、
「話す前に相手の話をよく聞くことに力を注ごう」といったことを書いてきてますが、
今日はも一つ、英語で話をする時の、シンプルなコツをご紹介しておきます。
(ただし、すでに流暢な方は想定していません、コレ初心者向けですから、念のため(笑)。)
もう、これは一言で終わってしまう、アドバイスですが。
「会話の一つの文を短く、短く。」と、内心で念じながら、おしゃべりするようにすることです。
英会話ができない、といってもどういう種類の「できなさ」なのか、はもう様々ですが、つまってしまう主なパターンのひとつに、「複雑なストーリーを展開しようとして、収拾がつかなくなる」というのがあります。
ま、英語に限らず日本語でも、オチというか結論に至るまでに、話が相当あちこちに飛んで、全体の筋がなんだかよくわからない話し方をする人は、珍しくないですよね。
「あのヒト、結局何を言いたかったんだろ?」と、聞く側が思わずいぶかってしまうような。英語で会話を楽しみたいと思ったときにも、つい同じ感覚で、「色々なコンテンツを含んだ長いストーリー」をいっぺんに展開しようと、自分のアタマの中で一人アセってしまいがちなわけです。
「あれ、××って英語でなんて言ったっけ?」「この言い方でよかったかな?wouldを入れなかったんでちょっと失礼だったかも?」などと、忙しく他の懸案もいっぺんに並行処理しようとするから(笑)、アタマの中がパニックになってしまったりします。
そうは言っても、Practice makes perfect.
一朝一夕の解決方法は無し、しょせんは場数を踏まないと、英会話もなかなか上手くはなりません。
が、一つのコツとして、ちょっと長めのストーリーを話したい時は、「アタマの中で内容を分割して、話す一文一文を短くすることを、意識する」ようにしてみましょう。
「長い文を何本かつなげて流暢に伝える」イメージを目指すよりも、「短い文をたくさん重ねて、言いたいことを確実に伝える」という実用路線、でいくわけです。
「短めに、短めに」と、英語で会話をするときには、自分の心の内で、強烈に意識しておく。
そうすると、少し心を落ち着かせて、話ができるようになりますよ。
お試しあれ。
「日本人のやりがちな英語のミス」的、英会話本への私見。
書店の英会話本コーナーを訪れると、必ず目にとまるのが、いわゆる”日本人がやりがちな英語のミス”を解説するコンセプトの本です。
英会話本としてはすでにひとつのスタイルとして確立された感がありますが、要するに、
「日本人はこういう場面・状況の時に、こういう英語表現をよく使いたがる。しかし、それはかくかくしかじかの理由で、不適切ないし間違いであって、正しくはこういう風に表現するのである。」
といった立て方で、企画し編集されている本ですね。
まぁ、具体的な署名まではさすがに書きませんけど、だいたいはタイトルの中に「日本人」「英語」「ミス」という3語が、よく使われていますね。ホントにそういう英会話上達本が多く、よく目にとまります。
実はワタクシ、勉強はじめたばかりの昔は、このコンセプトの英会話本を結構よく買ったんですね。
単純に、しゃべっているときのミスを減らしたい、と思って(笑)。
しかし今や、率直にいって、こういう本で吸収した知識は、実際の英会話の場面ではあまり役にたたないのではないか、と思うようになっているわけです。
そりゃ、知識としては有用で、読んだらその分は利口にはなると思うし、そういう意味では一冊くらいは持っていてもいいんですけどね。
ただ、そういう本で読んだ知識が直接英会話の場で役にたった、という風にはあんまり感じたことがないんですよ。
なぜかな?と自分でも思うんですが。
思い当たる一番の理由は、ですね・・・。
英語が「わかる、聴き取れる!」と感じた瞬間について。
皆さんもそうだと思うのですが、「こうやって英語・英会話の勉強を続けていて、うまくなったと思う時が、果たして自分にやってくるのだろうか?」といった、漠然とした不安にさいなまれる瞬間が、ありませんでしょうか。
英単語帳を広げて忘れた単語のチェックをしている時とか、通勤電車で英会話のCDを聴いている時とか、英会話学校の帰り道とか。
自分が前に進んでいるのか、その場足踏みをしているのか、いやひょっとしたら、前より後退しているんじゃないの?などと、自分のやっていることが全く意味のないように思える瞬間が、誰にでもあるんじゃないでしょうか。
ワタクシは昔、結構そういう気持ちになることがありましたので、他のヒトもそういう気持ちになるんじゃないかなぁ、と、やはり思うわけであります。
で、その疑問に対する答えはどうなの?と、なると思いますので、ワタクシの個人的感覚を書き留めておきます。
あくまでも個人的な体感になりますが、「あ、オレ、英語が以前よりうまくなってる。前よりずっと何を言ってるか聞き取れてるし、会話もなめらかになってる。」という「感じ」は、あるとき、自分の中に、確かに訪れました。
ただそれはいつか?と問われると、「×年×月×日の何時頃」というかたちではっきりと日時を特定して、思い出すことはできません。
自分の場合は、ある固定された瞬間というか一時に、鮮やかなかたちでその「感じ」をつかんだわけではありません。
今となっては漠然とした記憶なのですが、それはある日突然きた衝撃ではなくて、非常に緩やかに、いつの間にか自分の感覚にふっと寄り添うように、そう思えた時が何度かあったのです。
(2)「目にあまる英語バカ」を、読んで。
昨日からご紹介している勢古浩爾著「目にあまる英語バカ」(三五館)の最後に、「絶対に英語が上達する一般的方法がある。」として、まとめ的にこう書かれています。
引用します。
「テレビかラジオ英会話をベースにして、毎日三時間の勉強を一年間続けることである。・・・でなければ一時間を絶えることなく三年間。とにかく自学でゆるむことなく「継続」しなさい、ということである。具体的な何時間何年間なんてことに深刻な意味はない。・・・この世に驚異の学習法など金輪際、存在しない。」
「申し上げたいことは、決して責任をとらない世間や商売人が煽り立てる英語熱に浮かされて騙されないように、また自分をも騙さないように、ということだけである。」
いかがでしょうか?
特に、「自分をも騙さないように」というメッセージには、結構コタエルものがありますね。
最後は極めてまっとうな正論でしめくくっていますが、全体として読みやすく、色々と考えさせられるものがありました。
ここからは、この本を読んでの、個人的な感想と意見になりますが。
いくつかの点では意見が異なる箇所もありますが、強く賛同した点は、著者も指摘しているとおり、結局、英語がうまくなるかどうか、またその上達度合いは、「英語の学習のために、熱意をもってどれだけの時間を投下したか」ということにつきる、というところです。
膨大な量の時間とエネルギーの物理的投下なくして、英語が一足飛びに上達するということはあり得ない、という点です。
(1)「目にあまる英語バカ」を、読んで。
ちょっとすごいタイトルの本があったので、立ち読みしていたら止められず、つい買ってしまいました。
「まれに見るバカ」を書いた、勢古浩爾さんの新刊のようです。
「目にあまる英語バカ」 (勢古浩爾、三五館、1,260円)
前半の、会社から芸能界に至るまでもういやでも目につく、彼が言うところの「英語バカ」にむかっての数々の罵詈雑言を読んでいるだけでも、ずいぶん楽しいのですが。
ご本人が「本書を読んでも英語はまったく上達しない」と、まえがきの一発目に書いておられますが、少なからぬ英語学習のヒントも、この本にちりばめられているように思います。
amazonなどでもレビューがまだ無いようですし、少しご紹介したいと思います。
まず、勢古さんは、
・英語を宝石のような、だれもが羨む「かっこいい」ことの証明であるかのような、自我の装飾物としか考えていない人間
そして、
・なんの必要もないのに英語がしゃべれないことを「かっこわるい」と思う者、または英語ができる人間に嫉妬する類の人間
を、まとめて「英語バカ」と定義します。
「英語バカ」の根本は「白人(西洋)コンプレックス」であり、このコンプレックスが若い世代になくなりつつあるといわれる現状を、「大ウソである。」と断じています。
そしてこの本の前半部分では、「英語バカ」が、会社・作家・芸能界・政治家・学者そしてスポーツ選手に至るまで、ありとあらゆる所でゆがんだ形の英語・英会話熱がはびこっている現状に対して、悪態をつきまくってます。
もっとも、悪態とはいっても、割と爽やかな印象で、笑い流して一気に読めます。
これはおそらく、自身の英語力がたいした水準にはないと謙虚に構えていることと、英語・英会話に日本中で浮かれる今の状況を、「恥の感覚」を持って見つめているから、なのでしょう。
(5)話す前に、相手の話をよく聞こう。
英会話上達を目指し、相手の話をListenすることの重要性と、そして気をつけるべきポイントを書いてきました。
ここまでの話を整理すると、
「相手の目をみて話を聞くようにすること。」
そして、
「あいづちを、適切に打つようにすること。それには、話の流れを切らないようにすること、あなたに伝えたがっている相手の感情を理解し、それにそって話を深めていくことを意識したあいづちをうつことを、心がけること。」と、なりますね。
最後に常々思っていることをひとつ書いて、このテーマに一区切りつけたいと思います。
結局、英会話もワタクシやアナタが日々数え切れないくらいに交わしている「会話」に属するものです。
それがふだん使い慣れない外国語で行われているということで、「会話」であることに変わりはありません。
我々はつい、英単語数や会話表現テクニックなどに詳しくなりさえすれば、日本語同様の会話ができるようになると思いがちです。
しかしながら、母国語である日本語の会話においてすら、「あの人は何をいいたいのかよくわからない」「あの人とは話がかみ合わない」といったことが、ご存知のとおり、しょっちゅう起こっていますよね?
洋の東西を問わず、「会話の話し手と受け手が、おたがいの本当の思いをキャッチボールのように交換し合い、伝えあうこと」は、そもそも、とても難しいことなわけです。
ですので、「英会話を通じて、目の前の相手とのコミュニケーションを成りたたせたい!」と思う強い気持ちが自分の中にないと、こちらのSpeaking部分だけうまく相手に伝わっている、という状態には絶対に成り得ないわけです。
(4)話す前に、相手の話をよく聞こう。
「会話そのものがより豊かになるような」あいづち。
これは、あいづちを打つことで話の奥行きが広がっていく、ということです。
では、どういうあいづちの打ち方をしたら、話が深まる方向に導かれていくのか。
ひとつは、相手のいったことをほとんどそのままオウム返しに繰り返すようにあいづちを打つやり方です。
目の前の相手は、自分の話したいことを今まさに話しているわけですから、サーファーが波に乗るが如く、さからわずに受け手の自分もその内容をそのまま繰り返すことで、同じ話の波に乗るわけです。
"I bumpted into Taro yesterday." "Oh, you met Taro?" 「昨日、太郎にばったり会ったんだよ。」「え、太郎に会ったの?」
(ちなみに、この場合のあいづちは"Oh you did?"という言い方のほうが普通ですが、使い慣れないうちは、上のような「相手のいったことの繰り返し方式」でもいいでしょう。)
"It was Yoko who did that.""Wow, She really did that!?"といった感じですね。
ただし、同じあいづちを一本調子でずっと使わないほうがよいことはもちろんです。
(あいづちを含めた表現のバリエーションをひろげることの必要性については、以前、「英会話 表現のバリエーション」で書きましたので、よろしければご参照下さい)
さて、もうひとつは…。
(3)話す前に、相手の話をよく聞こう。
昨日の続きです。
英会話の基本となる「よく聞く」ことの初心者向けのコツとして、「あいづちを適切にうつこと。」をあげましたが、ここでのポイントは、単にフンフンとあいづちを打つことではなく、「適切なる」あいづちの打ち方となります。
「適切に」あいづちを打つとはどういうことか、おわかりになりますか?
それは、「会話の流れをさえぎらないような」あいづちを打つこと、そしてもうひとつは、「会話そのものがより豊かになるような」あいづちを打つこと、です。
最初の「会話の流れをさえぎらないような」あいづちとは、では逆に会話の流れをさえぎる種類のあいづちとはどういうものか?を考えてみると、すぐわかりますね。
そうです、「But」話法。
言い換えれば「でもさぁ…」と相手の言っていることを中断した上で、ある種の反駁を試みる種類の話し方ですね。
相手が、I guess it is A.といったときに、But A is not right for this case. と返すより、Really. Then what made you think that way? と、相手の話をやわらかく受けたあとで、さらに話をつないでいくことを試みる。
聞き手に、よくListenしようという姿勢さえあるなら、あいづちはこのような相手の思考を中断しないタイプのものが多用されているはずですし、その会話も、途切れることなく進んでいくはずです。
ここで念のため。
このやり方は、初心者向け英会話において、リスニングとスピーキングの実力を向上させることを念頭に置いて書いています。
例えば、相手との論戦、Debateのように、最初から念頭に置いて相手と対峙する場合には、そうそう相手がしゃべりやすいように話を聞いてばかりもいられないでしょう。
(もっとも英語で論争ができるということは、すでに英語力が相当のレベルに達している証左でもありますが)
最初は初心者でも、いつかはそういう英語で丁々発止とやりあう(Cross swords)時がくるかもしれませんが、その時はきっと、自分のスタイルに応じた英語の学び方が、アナタなりに完全に確立していることでしょう。
もうひとつ、「会話そのものがより豊かになるような」あいづちについては、また明日。
(2)話す前に、相手の話をよく聞こう。
「英会話でも、相手の話をよく聞こうとすること。 hearではなくlistenすること」が、上達の基本となります。
が、人の話をよく聞こうとするのは、日本語でも意外と難しいもので、英語ではどうしたらいいのか?と、思う人も多いかもしれません。
自分の話を適当に聞きながされ、思わずムカッとして、「ちょっと、聞いてんの?」「あぁ、聞こえてるよ」などというやりとりは、おそらく世界共通のものでしょう。
これは、相手が自分の話を聞き流している時に、話し手の頭の中では「自分の話の核心をちゃんとわかっているのかと不安になる」→「コミュニケーションの障害が生じていると感じる」、という、思考プロセスに陥るからだと思います。
これから使い慣れない英語で会話をしようとしているのだから、会話のそもそもの段階で、まず相手の話をきちんと聞こうとしている、という部分を相手に感じ取ってもらえない限りは、その時点で、相手のほうもコミュニケーションをとる気が薄れてくるでしょう。
そうなると、いくら英会話のフレーズをおぼえ臨んだところで、活きた会話のやりとりとはいいがたいものになり、アナタの自己満足に終始するか、会話が白けたものになる可能性が高くなるでしょう。
「よく聞く」ということについては、コミュニケーションのとり方という意味で日英に共通するいくつかのポイントがありますが、特に単語やフレーズが聞き取りづらい英会話の場合に特有の、初心者向け強調ポイントを書いておきます。
まずは、「聞くときに相手の目をみること。」
これは、超基本ですね。
ま、英語力の有無を問わず、日本人は外国人としゃべるときは意外にも、これがちゃんとできてるんですよね。
無意識のうちに、英語で会話するという部分での経験不足を、緊張感を持ちながらも補おうとしているからじゃないかと、思うんですが。
でも、日本人同士の会話に戻っちゃうと、一転また下を向いたり横をみたりで、まともに目を見つめあって話すことがなくなるのが、不思議というか、見ていておかしいですが…。
ということで、最初のポイントはOKとして。
二つ目は、「あいづちを適切にうつこと。」
これについては、また明日続きを書きます。
(1)話す前に、相手の話をよく聞こう。
英会話の勉強となると、どうしてもスピーキングをやらないと勉強した気にならない、という側面があるように思うのですが。
特に英会話学校に通うともなると、グループレッスンの時などに、高い授業料の元がとれないような気にもなるのか、積極的に自分を前に押し出して一生懸命話しまくるヒトもいる、と聞きます。
その心意気やよし、ですが、「先に、まずきちんと相手の話を聞く」、ことも英会話の勉強において実は相当に大事なことですので、その話を書きます。
そもそも世界の国を問わず、ヒトは相手の話を聞くよりも、自分のことをしゃべるほうを好む習性のようでして。
特に英会話の勉強をしているのだから、まず話さないとはじまらん、という気持ちはわかるのですが。
基本的には英会話も会話、話し相手との言葉のキャッチボールをしなければなりませんので、相手の話を正しく聞き取ることができてはじめて、こちらも正確に言葉のボールを投げ返す準備ができるわけです。
しかも、母国語ではない英語で会話のやりとりをする以上、正確にボールを投げ返せるかどうか、という面がありますので、なおさらその前に相手の話を聞く段階で、その意図するところを正しく聞き取り理解するように努める姿勢が、大切になってくるわけです。
リスニングとスピーキング、それぞれの力量が別々に孤立して立っているわけではありません。
「リスニングの力に優れる人ほど、スピーキングの力もある」、ということを、よく意識しておくことが大事です。
この場合のリスニングの力というのは、「相手の話を正確に聞き取れる能力」のみならず、「優れたコミュニケーターとしての資質」も、同時に指しているわけですね。
「英語・英会話上達プロジェクト」への投資にあたって。
Time is money.
最近、身にしみて思うことが多いんですが、タイム・イズ・マネーというのは、言いえて真理ですね。
時間=おカネ。「時間」と「お金」は等価値、ですね。
そしてどちらも消費されるものであり、使った分は永遠に戻ってこない。
この両方が有り余っている方は、このようなブログは確実に読んでいないと思うので除外するとして(笑)、この両者のバランスがとれていないヒトは、その片方だけでも所有していることだけで、少なくとも英語・英会話の上達という点において、かなり可能性が広がるように思います。
「英語・英会話の上達を目指す」ことは、ひとつの「投資プロジェクト」じゃないでしょうか。
それも、ワタクシやアナタが人生の相当部分のエネルギーを投下して臨む、人生における一大プロジェクトですね。
この投資プロジェクトの成功は、「アナタが目指した水準に、英語・英会話能力が到達すること」と、定義づけられます。
その達成のための公式は、そのプロジェクトのために投下した「時間×お金」、となるでしょうか?相乗効果があるし、きっと足し算じゃないですね。
ここは掛け算にしときましょう。割っちゃダメです。
いや、ちょっとそれだけでは、足りない気がしますね。
それだけならヒマを持て余した大金持ちは、みんな英語使いになってるはずなんで。
たぶんここに、「情熱」「努力」「才能」「環境」といった、もういくつかのファクターが入ってきますよね。
英語・英会話力=時間×お金×情熱×努力×才能×環境×メソッド×α?
といったところですか。
だから、単純に投資効果を最大限にしたければ、右の5つなり6つなりの要素をひとつでも多く極大化していく、ということになりますよね。
こういう話をした時に、「英語の才能ゼロだから、ゼロをかけると、全部無駄になるね。やぁめた」などと混ぜ返すヒトは、ホントに英語の勉強なんか止めたほうがいいと思いますが。
やはり、「外国人と一回も英語で話したこと無い環境だけど、時間と根性でカバーだ!」くらいのマインドでいくべきでしょう、ここは。
ところで、一般の投資においては、「現在価値法」という考え方がありますよね。
(4)「適当・ほどほどな勉強」vs「突き詰めた勉強」
ということで、ワタクシなりの、結論めいたことを書くならば。
「国内では使う機会もそう多くはない英語・英会話の勉強は、普段から全力でやっていては、細部に入り込んでしまったり、学習方法が相手の反応次第で左右される危険もあったりで、大局的な方向感を見失う恐れがある。
第一、いつもそんなに細かい点にきりきりして辞書などを引いていては、とても神経がモタナイ。
しかしながら、本当に実力を何段かレベルアップさせたいならば、身を削るようにして突き詰めて英語を勉強するということを、人生のどの段階かにおいて覚悟して集中的にやらねばならない。
そういう時期を経ずしては、大きな実力的飛躍は望めない。」
と、いった感じになります。
で、かく言うオマエは、それができてんのか?と、いわれそうですが。
ワタクシは、自分のこれまでを振り返ってみても、脳みそがバーンアウトするくらいに英語を突き詰めて勉強した時期がある、とは、今のところは、とても胸をはって言えそうにありません。
とりわけ、ワタクシの場合に限っていえば、「ライティング」と「ボキャビル」。
この二つに集中し、ある時期徹底的に自分をいじめぬく位に勉強することを、自らの英語学習において、どうしても成すべきことのひとつと考えているところです。
同時に、「ま、問題は、いつ実行するかだわな・・・」と、思っておりますが。
ひとつのことに集中するということは、ほかの諸々のことについては、ほとんど放り出すというのに等しいですからね。
いい年になってしまうと、なかなか難しいんですよ、これが。
会社を辞めて社会人大学に通ったり、MBAをとりに海外に行ったりするヒトは、きっとこんな気持ちを抑えきれなくなった末のことなんでしょうねぇ。
なかなかいつ自分にGOサインを出すかの覚悟もつきませんが、あまりのんきに構えてると、あっという間に5年くらい経ってしまいそうですので。
いやいや、ホントにオトナの毎日というものは、あっという間に過ぎ去っていくものですね・・・
(3)「適当・ほどほどな勉強」vs「突き詰めた勉強」
8日の日記で書いた「ゲシュタルトの祈り」については、色々読んでいますと、肯定する反応ばかりでもないようでして。
「社会への関わりを自ら謝絶し、他人への無関心を強める考え方だ」といった類の批判もあるようですね。
確かに、この詩の発想を英語学習に引きなおしたなら、「あなたはあなた、私は私」などといってばかりでは、「自分がやりたくなきゃ何もしなくてよい、そんなのワタシの勝手」ということで、話が終わってしまいます。
前回、完璧主義には弊害が多いということで、「適当・ほどほど」に長くやるということが大事だ、ということを、確かに書きました。
しかしながら、全く逆のことを言うようですけれども。
英語・英会話学習においては、いつまでも頭と精神にあまり負担がかからない「適当・ほどほど」だけでは、伸びが止まる時がいつかくるように思えます。
どこかの段階で覚悟して、もう勘弁してと悲鳴をあげたくなるくらい、気持ちが悪くなるくらいに、集中して勉強をする時を、人生の一期間において持つべきではないだろうか。
実はそんなことを、最近はヒシヒシと、自身の問題として、感じている次第であります。
そういうことをしないと、自分の英語力はここどまりで終わってしまうのではないか、と。
(2)「適当・ほどほどな勉強」vs「突き詰めた勉強」
よく、「勉強は誰のためでもない、自分のためにやる」という言い方をしますが、この言葉の裏側には、「誰かに認められることをはげみとして自分がやる」、または「自分の勉強が最終的になんらかの形で社会とつながっている」無意識の意味合いが、はりついているように思われます。
人は本当の意味で、「自分だけのために」勉強をできるものではないんじゃないでしょうか?
ただ、相手を意識しすぎると、今度は英会話ひとつにしたって「流暢な英語で、自分の意思を完全に伝えられるように頑張って勉強しないと」と、だんだん他人の目線が気になりだし、肩に力が入ってくるようになります。
英語学習でこれが過度に進行すると、発音のわずかな違いや英単語の使い方、冠詞の使い方など、細かい部分へとついつい、目がいきがちになります。
その先に待っているのは、「自分の不安をすべてつぶさないと、口から英語がでてこない」という、悪しき完璧主義ではないでしょうか。
昨日の「ゲシュタルトの祈り」の詩にあるとおり、「あなたは私の期待に沿うためにこの世にいるのではない」のですから、アナタが自分自身に期待するレベルの英語をしゃべるのをきくために、目の前の話し相手が存在するわけではありません。
目の前にいる彼ないし彼女は、アナタとなんらかの意思疎通をはかるためにいるのであって、アナタの英語の流暢さをほめそやすためにいるわけではないのだ、ということを、まずは確認しておきたいところです。
そういう意味で、完璧主義のくびきから放たれた、「適当・ほどほどな勉強」を、止めずに長く続けることの効用を、あえて強調しておきたいと思うわけです。
(1)「適当・ほどほどな勉強」vs「突き詰めた勉強」
臨床心理学の分野で、ゲシュタルト療法というのがあるそうです。
そして、その根底的な思想を盛り込んだ「ゲシュタルトの祈り」といわれる詩がありますが、皆さんはご存知でしたでしょうか?(不勉強にも、私は知りませんでしたが…)
ネットを検索すると邦訳にもいろいろあるようですが、以下、そのひとつを引用します。
「ゲシュタルトの祈り」
私は私のことをする、あなたはあなたのことをする
私はあなたの期待に沿うためにこの世にいるのではない
あなたは私の期待に沿うためにこの世にいるのではない
あなたはあなた、私は私
それでもしお互いが出会うなら、すばらしい
もし出会えないなら、しかたない
I do my thing, and you do your thing.
I am not in this world to live up to your expectations.
And you are not in this world to live up to mine.
You are you and I am I.
And if by chance we find each other, it's beautiful.
If not, it can't be helped.
"Gestalt Therapy Verbatim"(『ゲシュタルトセラピー逐語録』)
Frederick S.Perls, 1969 Real People Press, California.
(岡田法悦氏の翻訳)
いかがですか?
なかなか味わい深いというか、奥深いものがありますね。
(3)『英語が使える日本人』への道のり
文部科学省の5年がかりの計画も、目標大幅未達に終わる気配で、プラン練り直しの状況に近い、という話を書いてきていますが。
まぁ、この記事を最初に読んだとき、その結果にも驚いたのですが、実は真っ先に頭をよぎった記憶は、「自分が中学校や高校で英語を教わったときの先生の姿」でした。
ワタクシが中学生や高校生だったときは、今日と違ってかなり先生の権威というものがいきておりまして。
鉄拳制裁もゼンゼン当たり前でしたし、英語の教科書の音読が悪ければ立ったままで何回でもやらされましたし、放課後の居残り特訓というか、補習なども日常茶飯事でした。
また、俗に生徒の間で「あの先生は英語ができる。なぜなら、発音が上手だから」などと、まことしやかに先生の英語力の優劣の格付けが流れていたりしたものです(なんの客観的根拠も無い、単なる印象点の類ですけれども)。
なので、そういう怖い英語担当の先生方の顔を、思わず順番に脳裏に思い浮かべて、「あぁ、あの当時はすごく英語ができるように見えた先生たちも、実はホントの英語力は意外とたいしたことがなかったんだろうなぁ、内心結構、ハッタリをかましていたんだろうなぁ。そういや、外国人と話してたところは、三年間で一回も見かけなかったしなぁ…」などと、思いだしてしまったわけです(笑)。
(2)『英語が使える日本人』への道のり
英語が使える日本人を目指して文部科学省が平成14年に策定した、行動計画。
その計画4年目となる本年度の状況は、新聞報道によれば、以下の結果だそうです。
・高校卒業段階:平均としての目標であった「英検準2級程度」以上の英語力を身につけた高校生は、全体の27.8%。
・中学卒業段階:平均としての目標であった「英検3級程度」以上の英語力を身につけた中学生は、全体の33.7%。
文科省は、それぞれ卒業生の40%から60%程度くらいが、英検で上記の級程度のレベルに達することを目標として想定していたそうです。
しかし中学生も高校生も、そのレベルに達したのは目標の60%どころか、せいぜい半分の30%前後程度、ということで、大幅未達の状況となっています。
一方、彼らを教える先生の側は?といいますと。
英語教員が備えておくべき英語力の目標として、ほぼ全教員に求めている「英検準1級」、「TOEIC730点」の目標をクリアした人は、
中学校教員は全体の24.8%、高校教員は全体の48.4%に、とどまっているそうです。
来年度がこの行動計画の最終年度となっているようで、文科省は「全体的に水準が低い。教師もより自己研鑽を」といったコメントをだしている、とのことです。
うーん、はっきりいって、5年近くの長きに渡り文科省の肝いりでやってきたわりには、情けない結果。
記事を読んだときには、ちょっとびっくりしました。
(1)『英語が使える日本人』への道のり
文部科学省が平成14年7月に策定し、今年がその4年目になる「『英語が使える日本人』の育成のための戦略構想」というのがありますが、皆さん、これ、ご存知でしたでしょうか?
ワタクシなどは、漠然とこの間の小学校での英語必修化問題も含めて、国民の英語力向上に向けて国をあげての取組みが急ピッチで進んでいる、ということを知っていた程度でありまして、こんな具体的な目標付で話が進んでいることなぞはツユ知らぬという、なんとも貧しい認識しか持っておりませんでした。
恥ずかしいことではありますが…。
このような取組み(以下、プラン名が長いので『英語が使える日本人』で通しますが)について知ったのは、数日前の北海道新聞の記事「中高生の英語 低水準 文科省調査」が目にとまったからです。
ちょっとこれについて、書いてみたいと思います。
まず、この『英語が使える日本人』が目標とする英語力の到達水準を、一部抜粋してみます。
「国民全体に求められる英語力」として、このプランの戦略的な達成目標は次のレベル:
→中学校卒業段階: 平均「英検3級程度」が目標。「あいさつや応対などの平易な会話、及びそれと同水準の読む・書く・聞く」ができるレベル。
→高校卒業段階: 平均「英検準2級~2級程度」が目標。「日常の話題に関する通常の会話、及びそれと同程度の読む・書く・聞く」ができるレベル。
それでは、この目標を達成するために、学習者に教える側の先生のレベルについては、どのあたりが望ましいといっているのか?といいますと…
(6)日本人にとっての英語・英会話
幼児期・小学生という段階から英語の習得をスタートすることの意味合いについて、色々と考察してきました。
正直なところ、これだけ街にカタカナ英語が氾濫し、英語の歌が一日中流れ、外国人が通りを闊歩し、洋書の新刊が平積みで書店に並べられ、CNNがオフィスで一日中流れる世の中になっても、いまだ英語そして英会話というものは、大部分の日本人にとり縁遠い世界にあるようにも思えます。
それなのに、その現実がまったく存在しないかのように、日本社会は英語教育の強化と早期化を旗印に、どんどんと走り出しているかのように思えます。
今日の日本人にとっても、教材や指導のハウツーがこんなに進歩しているにも関わらず、英語を気軽にそして自在に使いこなす社会の到来は、まだまだ遠い先のように思えます。
同時に、「日本人ここにあり」と、そのアイデンティティを国際社会で示すための、有用で実用的な英語を教えることのできる教師陣、そしてそれを促すための社会的インフラも、まだまだこの日本には不足しているように思えます。
しかしながら、これらの問題すら、ワタクシとしては、いつかは解決に向かうような気がしています。
(5)日本人にとっての英語・英会話
幼児期や小学校からの英語教育は、「日本語の運用能力がきちんと固まってからでも遅くはない、それ以前に英語を教えることはむしろ有害ですらある」という、いわゆる「早期英語教育不要論」があります。
この意見については、以下のように考えています。
・前半部分の「日本語の運用能力がきちんと固まってからでも遅くはない」という点では、賛成。
幼少期に英語を学ばなければ手遅れになる、英語の運用能力が早く始めた人より大幅かつ確実に落ちる、ということまでは言えないと思います。
いい年齢になってから英語の勉強をスタートし、結構コミュニケートしている人はいくらでもいるわけですから、反証の実例には事欠きません。
・しかし、後半部分「それ以前の幼児期に英語を教えることは、むしろ有害ですらある」かどうかについては、確証が持てないので、正直わかりません。
親御さんが個々人の判断に基づき、子供に英語を学ばせ始めたり、あるいは教えないようにするという選択をした上で、それぞれリスクを引き受けていくしかないのではないか、と思います。
この場合のリスクというのは、ありていに言えば、「英語も日本語も中途半端なままで、大人になってしまう」可能性のことです。
(4)日本人にとっての英語・英会話
小学校からの英語義務化について、兼ねてより思っていることを書きます。
「小学校から英語を始めることそのものはOK、また民間機関が競い合って幼児・小学生向けに教育プログラムの販売なり普及なりをするのもOK、しかしながら、公的な義務教育のカリキュラムに組み込むのは反対」というのが、ワタクシの個人的な見解です。
前回まで書いてきましたように、「英語教育は早く始めれば始めるほど有利」かどうかは、正直わかりません。
知る限りでは、その効果を論じているもので、有力な支持を得ている見解はまだ無いですし、有力な学説すらいまだ確立されていない状態だと思います。
しかし、早く始めさせたいと思う親御さんがいるのは、この国際化の潮流の中で、そう思わないほうがむしろ不自然ですので当然ですし、いわゆる憲法の「教育の自由」の理念にそってますし、それ自体は問題ではないと思えます。
少なくともワタクシは、早期英語教育のどこがいけない?と言われて反対する、強力な根拠を持ち合わせておりません。
ただ、あまり早く始めても得られる効果はさほど高くないだろうな、とは漠然と思っています。
だから、費用対効果は決して高くはない行為だ、と感じていることもまた確かです。
一方で、小学校の義務教育に英語を完全に組み込むことは反対です。
なぜか?
その一番大きな理由としては、ですね。
「日本人に対する英語教育」という意味で、完全に確立し、万人の総意をほぼ得られている指導法は、未だにないはずです。
支配的なティーチング・メソッドがあるなら、今頃日本人は世界になだたる英語の上手な国民として評価されているはずですし、英語の学習方法が、こんなに玉石混交で乱立しているはずはないですからね。
「オトナの日本人に対してさえ、圧倒的に有効と認められる英語学習法がないのに、幼児や小学生にある特定の方法論を採用し、それを義務教育の名の下に強制して教えることは、現段階ではリスクが相当に高いように思えて仕方がない」のです。
(3)日本人にとっての英語・英会話
少なくともこれからの日本人にとっては、英語から完全に遠ざかって生きようとすると、生活に色々と支障をきたす?ように思えます。
それならば、英語学習は幼少期からスタートしなければ不利に作用するものなのか。
物心ついたころから、外国人と一緒に英語であいさつし、英語の歌を一緒に歌わなくては、勉強開始が遅くなった人との間で本当に目に見える差が、のちのちついてくるものなのか。
また、小学校から英語を義務化しないと、国際化の波に乗り遅れるものなのか。
ワタクシはこれに対しては、はっきりとした答えを自分の中に持ってはいません。
ほとんど、大脳生理学等の領域のような気もしますし。自分の体験に照らしていえば、ワタクシが英語にはじめて触れたのは小学校6年くらいだったように記憶しています。
当時、はじめて買ってもらったラジオ付テープレコーダーで、NHKの「ラジオ基礎英語」を聴いたのが、確か最初だったと、薄ぼんやり記憶しています。
ひとつだけ意見らしきものを開陳するなら、幼児期や小学生に英語教育を施す場合、カリキュラムはおそらく「英語という言語への慣れ」を主眼に組み立てざるをえないだろうから、その主目的も「英語を学ぶことへの抵抗感の軽減」に終始することになってしまうのではないだろうか?ということです。
(2)日本人にとっての英語・英会話
映画のタイトルなんかも、日本語訳したモノはひところに比べて、めっきり少なくなりましたよね。
これって、映画を見にくるなら、これくらいの意味はわかってくれなくちゃ、という、供給側の暗黙の強要を感じるようで、ちょっとイヤなんですが…。
例えば、「スーパーマン・リターンズ」なんて、「帰ってきたスーパーマン」というタイトルとかじゃ、やっぱり客足が落ちるもんなんでしょうかね…?
安部内閣になってからは、巷で指摘されているとおり、政策用語もカタカナ語が増えてきていますね。
「ホワイトカラー・エグゼンプション」などは、ちょっとアンマリじゃないの?と思いました。
普通のオトーサン・サラリーマンだって「エグゼンプション(例外化)」の部分の意味は、わからない人がほとんどじゃないの、と思いましたよ。
まぁこれは、わざとわかりにくくするように官僚サイドでネーミングしたんでしょうけど、それにしても悪ノリしすぎですよね。
あと、見逃してはならないのは、我々の日常生活における、インターネットの加速度的な普及ですかね。
いまやほとんど一家に一台パソコン、お子さんだってお婆ちゃんだってメールをキーボードでホイホイと打つ時代です。
ちょっと便利なウェブサイトを見たりソフトを利用したりしようと思ったら、英語のページにすぐ画面が切り替わっちゃったりしますし。
またスパイウェウアだウイニーだと恐ろしい時代ですから、ネットショッピングとかウイルスメール対策とかにおいて、英語のサイト説明なりメール文章なりをよんで自分で判断して、自衛しないといけないシーンも増えてきていますよね。
(1)日本人にとっての英語・英会話
テレビなどを見ていると、幼少期から英語に触れさせよう、という流れがここ最近、ますます強まってきているように思えます。
子供への教育費を惜しまない熱心な親御さんも、増えているようですね。
小渕内閣の時にでた「英語の第二公用語化」なんて話を皮切りに、小学校英語も必修化の方向に向けて環境整備がすすんできているようですし(5年生以上からでしたっけ?)、まぁ、他人よりもちょっとでもはやく始めたほうが有利だ、という競争意識もあいまって、世の中全体として、日本人として英語にはじめて触れるスタートの時期がドンドンと前倒しになってきているようです。
そういえば、「日本人が英語を学ぶ必要があるか」ということでは、有名な論争も昔からありますね。
やれ言語帝国主義だとか、かたや国際社会において英語くらい使えて当然、制度面で遅れてどうする、とか、立場も色々です。
ごく普通に一般生活を営む日本人が英語が必要かどうかについては、一昔前ならばともかく、まぁ現在は、「日本人は英語の学習など不要」と言い切ることは、実際の生活シーンにおいて、さすがに苦しくなってきているような感じはあります。
まず、老若男女を問わず、日常生活において、カタカナ英語ないしごく簡単な英語にまったく触れないでいるわけには、いかなくなりました。
ちょっとした英単語程度の意味を知らないと、わからないまま生活を送り、経済的に機会損失をこうむる羽目に、なりかねなくなってきました。
「このままでは日本語が侵食されっぱなしで由々しきこ」と、という反論や意見があります。
苦々しく思うのはわかるとしても、日本語重視のあまり、日常生活における英語比率の高まりを無視したままでいると、そのうち窮屈な思いをすることになってくるかも?という状況に、だんだんとなってきているように思えます。
(5)外国人と話すとき、なぜキンチョーするのか?
さて、昨日までツラツラと考えてまいりました、外国人と英語で話すときにキンチョーする理由を自分なりにまとめると、こうなります。
(理由1)文化的背景が異なる「未知」の世界からきた人物と接触すること、そのものへの恐れ。
(理由2)自分が想定しイメージしてきたコミュニケーション・レベルに、現実の自分は達してはいないのではないかという心配から、プライドが傷つくことへの恐れ。
上の二つが正しいとしたなら、これは別に「英会話の上手い下手」から必ずしも直接的に引き起こされているものではないことに、気づきました。
別の言い方をすれば、いくら英会話が上手くなったとしても、この二つの恐れの感情はストレートに消えてなくなるわけではない、ということになります。
では、この二つの恐れの感情がわくことのないよう、消し去る方法はあるのでしょうか?
(4)外国人と話すとき、なぜキンチョーするのか?
「外国人との会話くらいで、プライドがどうこうなってしまうことなど、ワタシは全くない、そんな安っぽいプライドなどそもそも持ち合わせてはおらん!」と、お思いの方はいるでしょう。
この場合、プライドという単語を使うのが適切かは、自信がありませんが。
もっと細かく観察するなら、「外国人との会話」それ自体は、単なる触媒として作用するにすぎない、ものでしょう。
「自分がそこに至るまで積み重ねてきたものが、イメージどおり有効に機能しないこと、現実とイメージとの落差が大きかったこと、に対する失望感」を、自分の目の前にはっきり示されるというリスクに対しての恐れ、のようなものでないかと思えます。
現実の生活では、物事の習得プロセスにおいては、最終的な到達点のイメージを、自分なりに漠然とではあっても、無意識に描いているものです。
「××大学に合格できたらいいな」「××の面接で採用されたい」といった、願望に近い、比較的弱いイメージ。
(これを意識的に繰り返し、強烈に自分の脳裏に刻印していくやり方は、俗にいう「イメージ・トレーニング」になりますね。)
英語があまりできないと自認するヒトも、逆に、英語が多少はできると考えるヒトも、程度の差こそあれキンチョーしてしまうことが多いのは、いずれもこの「現時点における自分の英会話力の見立て」を、正しくイメージしていく作業を、突き詰めてやっていないことに、理由があるのではないでしょうか。
(3)外国人と話すとき、なぜキンチョーするのか?
英会話の場において、外国人と話すときにキンチョーする理由の「その1」として、「未知なる者への恐れが、テンションをあげるため」と、昨日書きました。
特に異文化圏のヒトと話すとき、そのキンチョー感はさらに高まります。
これが、日本人で海外在住暦ウン十年で、英語がネイティブ並みにペラペラの商社マンの方とかお相手に話す場合だと、緊張しないということまではないでしょうが、「奥底に同じ日本人、話す前にわかりあえる共通のコードがいくつかあるはず」という、半ば無意識の思惑が働いて、それがテンションをなぜか不思議と和らげてくれるものです。
しかし、異文化圏の人と話す場合、そういうことは大抵の場合、ありません。
その未知の世界への手探り感が、基本的に体内のアドレナリンを沸々と分泌させる(笑)作用を、もたらすわけであります。
考えられる理由「その2」。それは・・・・
(2)外国人と話すとき、なぜキンチョーするのか?
英会話において外国人と話すときの、キンチョー感に関わる考察(笑)を続けます。
まぁ、海外に住んでいて、回りに日本人の姿は影も形もなく、現地の人と英語でやりとりしなければ生活すらままならない、というような環境ならば、話は別かもしれません。
あとは、向こうで生まれ育ったとか、仕事で何年もいたとかね。こういう人たちは、いちいち緊張していたら神経が衰弱して身体が持ちませんので、この話題からは当然に除かれます。
(ちなみに、いきなり話がそれますが。
いわゆる帰国子女で英語がペラペラだとか、出張で海外に何年もいたとかのバックグラウンドがあって英語がうまい人たちは、うまくて当然なので、あまり大きな顔をせずに、日々謙虚にしていただきたいものだ、とドナは、いつも内心やっかみ半分で思っています。
そんなのは、外的な環境の強制的作用で、その人の脳に英語力を上げさせるよう英語を適応させる強力なドライブかかっているだけですから、うまくなるのが当たり前なんですよ。
むしろ、この日本から一歩も出ずに、「チキショー、国内で英語ベラベラになってやるわい!」と、辞書や英単語帳片手にシコシコ頑張っている人たちのほうに、異様なる親近感(笑)をおぼえます。
ま、かくいうワタクシが、モロそういう人間でしたからね・・・。
なので、このブログはそういう人たちに向けて、書いているのであります。)
おぉ、話が大きくそれたので、元に戻します。
まず、ワタクシが考える、「キンチョーの理由その1」は・・・
(1)外国人と話すとき、なぜキンチョーするのか?
ドナです。
上のタイトルの件について、数回、考察してみたいと思います(笑)。
英会話というと当たり前ですが、会話の対象として、外国人の方が目の前にいる状況なわけです(別に英語の達者な日本人でもいいのですが、ま、とりあえず置いておきます)。
彼らと、色々な話題について、英語で話す。
英会話とは、煎じ詰めればただそれだけの、外形的行為なわけですが。
なのになぜ、なんとなく、キンチョーしてしまうのでしょうか!?
いや、別に自慢するわけじゃありませんが。ドナは日本にいて(むろんビジネスや旅行などで、海外滞在の時もありますが)結構、英語圏の方と話す機会は多かったほうなんじゃないか、と思っています。
英会話学校こそ、行ったことはありませんけどね・・・
十数年通った仕事場には、アメリカ・イギリス・オーストラリアと、さまざまな国々の方が同僚としていましたし。
ですので、話す回数が少ないことによるキンチョーでないことは、間違いないと思っているのですよ。
あと、別に極端に会話が下手とか、人見知りするとか、そういうこともないんですよ。
昔は、営業職でしたし、飛び込み営業なんかも結構やったくらいですから(いや、飛び込みは嫌いですけどね・・・笑)。
これだけ、ネイティブとの会話の機会と経験も多く、別段、超人見知りというわけでもなく、今ではそこツボ、じゃなくてそこそこ、英会話もこなす(こんなブログを書く程度には)ワタクシが、外国人と話すとき、
いまだ胸の奥底に、かすかなキンチョー感を必ずおぼえる・・・。
これはなぜなのか?と、自分でも、思うわけであります。
また同時に、英会話歴数十年の(笑)私がそう思うということは、ひょっとしてこれをお読みの皆さんも、ケッコーそうなのではないか?と、あわせて思うわけであります。
(7)英会話学校に行かなかった理由
英会話学校について何回か書いてきましたが、今日でひとくぎりとしますね(あ、当然、また別の機会に別のアングルから書きます、ハイ(笑))。
ちょっと、今まで英会話学校について書いてきたことを、ポイント箇条書きでまとめてみましょうかね…
・英会話学校は授業料は多少高くても、やりようで十分に役立つ。
・従って、自分に最適の学校を見つけるよう、事前に十分に下調べをして選ぶ必要がある。
・英会話学校に対する自分自身の評価は、「自分を担当してくれる先生の質」で決まる。
・英会話学校で費やす時間はそもそも短く、どんなによい教授法の学校でも、絶対量として足りない。
・したがって、英会話学校で使う時間で最大効果が得られるよう、事前の準備(インプット)を十分にやっておく必要がある。
・つまり、英会話学校は「アウトプットの場」と位置づけて、臨まなければならない。
だいたい、こんなところでしょうかね…。
いままでTOEIC などについて、シリーズで書いてきても、書き流しで、整理してまとめるということを、してきませんでした。
このブログを読んでいる方には、英語の効率的で効果的なマスター法を探している方もいらっしゃるでしょうから、時々のタイミングで学習ポイントを、今後はまとめていくように心がけますね。
このシリーズは「英会話学校に行かなかった理由」として書いてきましたが、ドナは今でも、授業料分のおカネと時間さえあれば、じっくり腰をすえて通ってみたいなあ…などと、内心思っているわけであります。
ドナが行くことになったら、またこの場でレポートしてみたいと思いますので、その時までこの「英語・英会話 上達そこツボ!日記」(略称・「そこツボ!」)を、ご愛読いただきますよう、よろしくお願いいたします。
(6)英会話学校に行かなかった理由
英会話における、インプットとアウトプットのバランス。
これは各人各様の意見があるでしょうけれど、ドナは最低でもインプット7にアウトプット3くらいの、割合ではないかと思っています。
ワタクシは、もうはっきりとした「インプット重視派」です。
英会話は今日ではもはや一大産業ですから、勉強法に関しては、大抵はまったく逆の意見が、方法論として存在します。
嘘だと思ったら、ネットで調べてみてください(笑)。
ちょっとサーフしただけで、180度正反対の意見に、いくらでもお目にかかることができると思います。
ですので、英語を本当に身につけようと思うならば、しっかり自分というものを持って、ヒトがなんと言おうと、オレ(ワタシ)はこれでやっていく!という気概がないと、情報の海におぼれて挫折してしまうのが、オチだと思います。
さて、話を戻して、ドナがインプットのほうが大事、と言えば、「いや、アウトプットこそ、至上。現場で外人との活きたやりとりの機会を膨大に持つことによってこそ、英語は磨かれる」といったようなことを言うヒトが必ず、その対極に実際いるわけですね。
皆さんからすれば、きっと「どっちやねん!」と、言いたくなるでしょうね…。
(5)英会話学校に行かなかった理由
つらつらと、英会話学校について書き綴っています。
前々回の(2)英会話学校に行かなかった理由で、「英会話学校で費やす時間だけでは、英会話習得には圧倒的に足りない」ということを書きましたが、ちょっと消化不良でしたので、もう少し書き足します。
「高いおカネを払って英会話学校に行ったって、英会話上達の役にたたない」などという極端な意見も巷にはありますが、ドナはそうは思いません。
ま、「オマエも行ってないじゃん」と言われれば苦しいところですが(笑)、ドナは実は、よい英会話学校の選定と、あと授業料と(笑)時間のやりくりさえつけば、実は今でも行ってみたい、と思っています。
時々、ネットや地元の英会話学校のパンフレットを手に入れて、比較なんかもしたりしてるくらいですから。
ただ、できればグループレッスンではなくて、日本人への教授経験の長い講師とマンツーマンで話せる、プライベートレッスンが希望ですけどね。
英会話学校はですね、「基本的には、アウトプットの場である」と位置づけて活用すれば、これは非常に効果的ではないか?とかねがね思っているんですよ。
英会話がほとんど初めてで、英会話学校にマジメに通えばうまくなるだろう…位に考えて、学校に行く以外のことはほとんどなにもやってない…そりゃ、これでうまくなったら奇跡ですよ。
英会話学校で一からインプットしていこう、ではダメです。
なにせ、そこでの滞在時間が圧倒的に短いんですから。
ここでは、自分が英会話学校にくるまでに時間をかけて仕込んできた「インプット」を、アウトプットしたら果たして通用するのか?それをネイティブを通して、密度濃く検証する場、でなければなりません。
続きはまた明日書きます。
(4)英会話学校に行かなかった理由
英会話学校は、やはり担当の先生の教え方というか、レベルが一番気になりますよね。
こればかりは、個人的相性の問題もあるでしょうから、なかなか難しいとは、思うのですが…。
ネットで「英会話学校」「先生」「評判」などと打ち込んで色々検索してみると、ほめ言葉や悪口の両方で、たくさんの書き込みを読むことができますが。
しかし正直なところ、それらを読んでいても、その英会話学校がよいのか悪いのかというところまでは、どうにもピンとこないですね。
ネット検索では、やはり自分にとっての「ファイナルアンサー」は、どうにも見つけにくそうですね。
結局、自分がめぐりあう先生が、学校に払い込む金額の対価として受けるサービス全体の7割位は、占めることになるんじゃないでしょうか?
残り3割がテキストとかカリキュラムの内容、その他の提供サービスの質、という感じじゃないかと、想像してますけど。
いや、想像ですので(行ったことないですし・笑)、上記の割合なんかも適当ですが。
ドナだったら、やっぱり自分についてくれた先生の授業がどうか?で、全体のサービスを判断すると思うから。
例えば、受付にいた女性の応対がもうふてぶてしくて最悪で、教室もなんだかボロくて、割引サービスとかもほとんどなくて、誰も知らないような英会話学校であったとしても、
自分を担当してくれた先生の授業が最高なら、
「他のことはすべて許して、そこに通い続けよう」と思ってしまうような気がします。
ま、ワタクシもどちらかといえば、ものぐさ太郎ですから。
「より究極のサービスを求めて」、英会話学校の無料レッスンを何件もはしごして比べる、なんて根性がないことも、確かですけどね(笑)…。
(3)英会話学校に行かなかった理由
「英会話学校は、楽しそうかも…」と、内心ずっと思ってました。
3名くらいのグループレッスンとかに参加して、話題があったら話がはずんだりして、授業の後、皆で一緒に外でお茶したりなんかするのかしらん…などと、夢想したりして(笑)。
でも、ホントに英語の力を伸ばすことを主目的にするなら、1対1のプライベートレッスンが、一番いいんでしょうね。
やっぱり日本人数人と一緒だと、どうしても英語一本で…とならない雰囲気が、そこはかとなく、でてきそうですからね…。
最初は「え?今なんて?」とか「そうそう」なんて、あいづちの日本語がときおり混ざるだけだったのに、いつの間にかほとんど日本語になっちゃって、たま~に英語がはさまるだけになるとか(笑)。
まぁ、大手の英会話学校ならば、きちんと先生がそのへん律してくれるんでしょうけど。
ごく小規模の英会話教室などは、その辺が厳しくなくて、どこまでも流されてしまう…という話は、時々耳にします。
たぶん、自分で予習復習した成果を、英会話学校での短い時間にありったけをぶつける…というのが、費用対効果的には一番よいんでしょうけど。
・・・それもなんだか、終わった瞬間燃え尽きて、ガックリ疲れてしまいそうですねえ。
かといって、ユルユルと楽な気持ちで48回コースとか受けてしまうと、今度は最終回を終わったときに、全然しゃべれるようになってない自分に対して、激しい自己嫌悪を感じたりしたらいやだな…などと、先回りして想像したりして(笑)。
いや、それくらいで終わるならいいけど、ばん回しようとして、更に高額のAdvanced Courseに、勢いで申し込んだりなんかしちゃったりして…
などとグルグル想像して、きりがなかったりするわけであります(笑)。
(2)英会話学校に行かなかった理由
英会話学校に行かなかった理由を、今頃になって、じっくりと考えたりしているわけでありますが。
ひとつはおカネの問題、と、昨日書きましたけれども。
この場合、「おカネ」については、実際支払うことになる金額そのものよりは、「自分で満足できるくらいになるまでには、ひょっとしたら底なしに金額をつぎ込む羽目になるかもしれない。」との不安にかられたことのほうが、大きかったような気がします。
また、「いつまでたっても上手くならないのに、せっせと月謝を払い込む自分自身に、そのうち嫌気が差してしまうかもしれない。」と、自分で勝手に先回りして、悪い想像に走ってしまったこともあります。
こんなことを考えているヒマがあったら、多少おカネを使ってでも、英会話学校に行ってひたすら先生を相手に練習してしゃべりまくったほうが、時間効率もよく、実り多かったのかもしれません。
そのヘンのプラスマイナスというか損得、費用対効果の良し悪しは、いまだに想像するしかない状態です。
だから、もし誰かから「英語が上手くなりたいんだけど、英会話学校に通ったほうがいいと思う?」と尋ねられたら、「行ったことがないので、わからない。上手に利用すれば効果はあるだろうし、そうでないなら思ったほど効果が得られない結果になることも、考えられるんじゃないですか」と、たぶん答えると思います。
でも、ひとつだけ経験に照らしてほぼ確実にいえるのは、ですね。
(1)英会話学校に行かなかった理由
「そこツボ!」のドナでございます。