「ピンチはチャンス」のフレーズが招く、思考停止状態を警戒したい。
今日から4月ですね。
以前 「10月1日から気持ちも新たに、勉強をスタート!」とか、力まない。 でも書きましたが、少なくとも英語・英会話など外国語の勉強をするときは、特定の日を区切りとかイベント日としてあんまり意識しないほうがいいと、個人的には思ってるんですが。
「本日も、いつもと変わらない、いつもどおりの一日」として、そのいつもの一日にする勉強の質と量を上げていくアプローチを、ワタクシとしてはオススメしたいです。
ところで先ほど、たまたまテレビでとある企業の入社式のシーンを映していたのを聞き流していたら、「大変な時代の入社となったが、『ピンチはチャンスだ』と考え、皆さんには積極的に仕事に取り組んでいってほしい…うんぬん」と、社長が新入社員を前に訓辞を述べたとかいうニュースが流れてまして。
その瞬間、なんだかなつかしい気持ちにとらわれまして…この、「ピンチはチャンスだ」ってフレーズ、これまでよく耳にしたものですから。
さる数十年前、ワタクシが社会人デビューで営業マンとして配属されたとき、あのイヤな上司がよく口グセで言っていたなぁ…とかね。
ビジネス書でもいまだに、この手のフレーズで新入社員を焚きつける内容のものを、結構見かけますよね。
ワタクシも結構長い間、言われるまま・焚きつけられるままに、この「ピンチはチャンスだ」的発想を、疑いもせずそのまま受け入れてましたよ。
「ピンチに直面してもくじけずに、これをチャンスだと思って、最終的にプラスの結果にするようガンバロウ」みたいな。
さすがに歳を重ねてくると、多少見方もひねくれてきまして。
ま、現実にピンチに直面したときそうつぶやいて自分を鼓舞することは効果ゼロ、とまで言うつもりはありませんけど。
ただこの歳になると、「『ピンチはチャンス』じゃないだろ。『ピンチ』と『チャンス』はまったく別モンだろ、一緒くたにしちゃダメじゃん。」と思ってますね…。
これまでの対応の不十分さとか、自分の手抜きとか、あるいは自分ではどうにもならない不可抗力のケースもあるでしょうが、何かしらの原因があって、今のピンチを招いたわけであって。
ピンチがおきたそもそもの原因から目をそらして、「ピンチ」と「チャンス」というまったく異なるものをつなげちゃったら、そもそものスタートとしてダメなんじゃないかと。
まして社長が訓辞で「ピンチはチャンス」と新入社員にメッセージすることは、ピンチの発生原因など、ピンチが現実化したらもう考えなくてもオッケー、って言ってるに等しいんじゃないですかね。
ピンチをチャンスにすり替えることによって、ピンチを招き入れないために今後どうしたらよいかを考えるための「思考のプロセス」を止めてしまう。
ピンチを招かないためにはどうしたらいいかについて、これまでの経営トップが将来のシミュレートもリスク管理もロクにせず、ついでにチャンスを見逃し続けてきた結果の必然として、今まさに、ピンチのど真ん中にいるんでしょうに(こう考えていくと「100年に一度の金融危機」なんてのも、ずいぶん都合のいいフレーズですね。「このあと百年は起きないし、起こさないための仕組みづくりはもう詰めて考えなくてオッケーよ」とでも、暗に言いたいのかしらん)。
「君たち新入社員は我々の轍を決して踏まず、我々を反面教師として、ピンチは芽の段階ですかさず摘み取る優れた経営センスを、是非とも身につけてくれたまえ」くらいのことを言ってしかるべきではないかと(笑)。ま、言うわけないか。
でも「ピンチはチャンス」とか言って、なにも自分のコピーづくりをあおるようなことはしなくてもいいんじゃないかなぁ…とは、思いますね。
「ピンチを招かないようにする力」「チャンスを確実にモノにする力」「ピンチに陥ったとき、くじけずそれを克服する力」と三つの別々の力があって、それぞれをどうやって身につけていくのか、という話だと思うわけです。
これらに優先順位をつけて、段階を踏んで身につけていきましょう…とかいうなら、まだわかるんですが。
でも「ピンチはチャンス、がんばろう」ってメッセージを思いっきりはしょられてしまうと、まったく違う方向に連れていかれる新社会人もいるんじゃないか…と、つい余計な心配をしちゃいますね(みんな入社式のスピーチなんか適当に聞き流しているし問題ないだろ、って見方もあるでしょうけど)。
ピンチはピンチとして、それをこねくり回してじっくり見つめる力、「自分は二度とこんなピンチには巻き込まれんぞ」と自身の奥深くに刻み込む力。
そういった力を四苦八苦しながら養うほうが、先々の貴重な財産になるとワタクシは思うんですけどね。
病巣をじっくり観察しない医者が、腕のよい医者であるわけはないでしょう、という話で。
「ピンチの到来なぞ完全にコントロールできないのは当然ですが、だからこそピンチがやってくる前に問題の芽を発見して、大事になる前につぶしてしまう力を少しでもつけておくことが重要なんです。現実にピンチが来てから「ピンチはチャンス」なんて言っても、しょせん強がりの域を出ないんですよ…」って、どうしてどこの社長さんも言わないんだろ(笑)。
あ、そろそろ英語・英会話の話に戻してから、話を締めますね。
えぇ…そうですね。
世にたくさんいる自薦・他薦の英語の達人たちの「英語・英会話上達ノウハウ」なるものはあくまで参考にするにとどめ、話半分というかあんまりストレートに真に受けないという姿勢が、やはり大切ですね(もちろん当ブログも含めて、ですよ)。
「彼らのアプローチこそが正しくて、自分のいまの学習方法が100%決定的に間違っている」なんてことは、実際そうそうあるもんじゃないです。
改善すべき点はあるにせよ、あなたが今のやり方で学習が続いているのなら、それはある程度あなたにあったやり方だからこそ続いているのですよ。
当人の実力として、掛け値無しの英語・英会話の実力者が世に多数いることはもちろんです。
でも、彼らが自分の確信する方法論を自分以外の誰かにメッセージする過程において、アナタをとんでもない方向に連れて行ってしまうリスクだって往々にしてあるのですよ。
やっかいなのは、教え導く側も善意のまま(悪意の場合ももちろんあります)、あるいは気づかなかいままに、自信満々でやっているケースもまた珍しくないことですね。
だから自分自身がよく注意して、あくまで「自分にとって、有用なのか不要なのか」の結論を下していくしかない。
そのためには「耳障りの良いシンプルなメッセージが導き出されたその背後にあるもの」について、自分なりに調べて考えるしかないでしょう。
「あぁ、この先生は留学経験が長いから、こういう物言いになるんだな」とか「この先生はスピーキング重視のようだけど、恥ずかしがらずどんどんしゃべろうって言われてもなかなかできない生徒の気持ちを、あまり理解していないな」とか、自分の現在の学習スタイルと照らし合わせながら考えてみるわけです。
世の諸々のことと同じく、外国語の学習においても、シンプルで断定的な解決アプローチを目の当たりにしたときには、「この人は何をどう取捨選択した結果、そのような主張をしているのか」について、その思考の跡をたどってみるのがよいでしょうね。
ということで、「あなたが試行錯誤して得た果実、ファイナルアンサーだけをくださいね、私はそのとおりにやりますから」という全面依存の思考停止状態にだけは流れないよう、時々は自らの勉強法を振り返るようにしたいものです。