(2)「英語マニア」に、なってはいけない。
昨日の続きです。
英語も言葉である以上、「読み・書き・聞く・話す」の4技能を本当の意味で自在に使いこなせるようになるためには、たぶん原理的に、膨大な時間が必要なはずです。
それは我々が日本語を習得する過程で、誰もが無意識のうちに、わかっているはずのことです。
やり方によって、かかる時間が短縮される、ある程度効率化される、ということも確かにあるでしょうが、よく英語教材の宣伝にあるように「たった×日で(あるいは×ヶ月で)英語がペラペラになった!」というのは、やはり宣伝としてとらえておかないと、後でそれを信じた自分がガッカリするハメになります。
例えば、日本語の達者な英会話学校の先生とか、テレビで流ちょうな大阪弁を操る英米人のタレントさん、いますよね?
とらえ違いをしてはいけないのは、たいていの場合、彼らが上手なのは「日本語の日常会話を聞き、話すこと」なのであって、「日本語そのもの」が達者なわけではないことです。
「話し」「聞く」だけでなく、「読み」「書き」もちゃんとできて、はじめて「日本語を知っている」ことになるわけですからね。
彼らにペンを持たせて、日本語で長い文章を書いてもらうと、たいていの場合、そのことは比較的容易にはっきりします。
その流ちょうな会話に比べて、意味は伝わっても、彼らの書いた日本語の文章がひどくつたないことは、そう珍しくありません。
ワタクシが以前勤務していた会社でも、流ちょうな日本語で日本人と何十分も言い争いができる同僚の英米人スタッフが、何人もいました。
しかし、彼らが書いた文章を見て、その会話の知的水準に比べ段違いにたどたどしい、子供の日記のような文体に、よくびっくりしていたものです(念のため、彼らが母国語で書いた文章は、当然にその高い知的水準が見事に表現されていました。あくまで彼らにとり異国の言葉である、日本語で書いた場合です)。
これから、ひとつはっきりわかることがあります。
それは…。
「英語を習得する時に、ターゲットをはっきりと定め目的を絞り込みさえすれば、相当なレベルまで上達することは我々にも当然可能」、ということです。
例えば、
「娯楽小説のペーパーバックなら、ほぼ辞書なしでスラスラ読めるようになる。」とか、
「ビジネス英文なら、ほぼ状況や分野を問わず、正確に書けるようになる。」とか、
「毎朝見るCNNだけは、ほとんど完璧に理解できるようにする。」とか。
こういう目的を絞った勉強の仕方をするならば、それは比較的短期間(といっても、数年程度はかかると思いますが)のうちに、かなりのレベルまでくることができるのではないか、と思います。
しかし、絞り込むということは、他のものを捨てるということとイコールですので、「ビジネス文書は英語で完璧に書けるが、英会話はリスニングがダメ」とか、「英会話はかなりペラペラだけど、文章を書かしてみたらもうド下手」という状態には、やっぱりなってきます。
先ほど例にあげた、日本語の達者な英米人スタッフのように。これは、決してそれが悪い、といいたいのではありません。
というか、むしろ日本人が英語を習得しようとするとき、そのように各人が達成ゴールを明確に絞って定めて勉強することこそが、英語マニアへの道を回避でき、狭い範囲であっても、本人も一定のプライドをもって英語に接することができる、ひとつの有力な方法論になるのではないのか。
そう、思ったりもするわけです。
明日も、もう少しだけ続けます。