(2)「目にあまる英語バカ」を、読んで。
昨日からご紹介している勢古浩爾著「目にあまる英語バカ」(三五館)の最後に、「絶対に英語が上達する一般的方法がある。」として、まとめ的にこう書かれています。
引用します。
「テレビかラジオ英会話をベースにして、毎日三時間の勉強を一年間続けることである。・・・でなければ一時間を絶えることなく三年間。とにかく自学でゆるむことなく「継続」しなさい、ということである。具体的な何時間何年間なんてことに深刻な意味はない。・・・この世に驚異の学習法など金輪際、存在しない。」
「申し上げたいことは、決して責任をとらない世間や商売人が煽り立てる英語熱に浮かされて騙されないように、また自分をも騙さないように、ということだけである。」
いかがでしょうか?
特に、「自分をも騙さないように」というメッセージには、結構コタエルものがありますね。
最後は極めてまっとうな正論でしめくくっていますが、全体として読みやすく、色々と考えさせられるものがありました。
ここからは、この本を読んでの、個人的な感想と意見になりますが。
いくつかの点では意見が異なる箇所もありますが、強く賛同した点は、著者も指摘しているとおり、結局、英語がうまくなるかどうか、またその上達度合いは、「英語の学習のために、熱意をもってどれだけの時間を投下したか」ということにつきる、というところです。
膨大な量の時間とエネルギーの物理的投下なくして、英語が一足飛びに上達するということはあり得ない、という点です。
その膨大な時間とエネルギーの投下量を非常に少なくする方法がある、と世間では様々に喧伝されていますが、そのような即効薬はない、という点にも賛成です。
せいぜい、学習効率を多少あげる方法がいくつかある程度、というところだと思います。
吹き込まれるままに安易な方法論に踊らされ、自ら考えることを放棄して英語を振り回す人こそ、氏のいう「英語バカ」に、晴れて認定されることになるのでしょう。
ごく一握りを除いて、人間のアタマなど大差ないわけですから、むしろ投下学習量と消費時間に比例して英語・英会話運用能力の優劣が定まってくること自体、極めて公平な現象であるともいえます。
時間だけが、万人に公平に与えられている、唯一の資源ですしね。
だから、英語・英会話が上手くなりたいと望むことは、ワタシやアナタの人生の貴重な時間とエネルギーの膨大な量を消費するということと、完全にイコールなわけですね。
「そこまでの意味と覚悟が、人生の大部分を日本で過ごすアナタにあるんですか?」と、仮に問われた場合、確信をもって「ワタシにとって、英語の勉強を続けることには、こういう意味がある。だから、勉強を続ける」と答えることのできる”揺るぎない意思”を、自分の内面に持っておくことが大事だと思います。
氏のいう「英語バカ」に、現在の自分の姿をちらとでも見出した人は、むしろ幸運かもしれません。
たぶん、英語の力を本当に磨いていくのは、そう感じる自分を恥ずかしいと思う、時間をたくさん使っても自分の力の向上させていこうと思う心の在り様なのでしょうし、それがあるからこそ、自分の中の英語バカ的なDNAを恥じる気持ちになるのですから。
ワタクシ個人としては、以前の日記でも書いたとおり、日々の投下時間が少なくとも、生涯に渡って長く英語の勉強を続けることを、自分の方法論として選びました。
英語を身につける環境や動機、目的によって様々でしょうが、自分の中に、自分なりにぶれない、何故に英語の勉強を続けるのかという「極めて私的な」軸を、ちゃんともっておくことをオススメします。
勢古さんの言うとおり、「あなたにとって必要なのは、あくまでも個人としての英語なのだ。」から。