(2)日本人にとっての英語・英会話
映画のタイトルなんかも、日本語訳したモノはひところに比べて、めっきり少なくなりましたよね。
これって、映画を見にくるなら、これくらいの意味はわかってくれなくちゃ、という、供給側の暗黙の強要を感じるようで、ちょっとイヤなんですが…。
例えば、「スーパーマン・リターンズ」なんて、「帰ってきたスーパーマン」というタイトルとかじゃ、やっぱり客足が落ちるもんなんでしょうかね…?
安部内閣になってからは、巷で指摘されているとおり、政策用語もカタカナ語が増えてきていますね。
「ホワイトカラー・エグゼンプション」などは、ちょっとアンマリじゃないの?と思いました。
普通のオトーサン・サラリーマンだって「エグゼンプション(例外化)」の部分の意味は、わからない人がほとんどじゃないの、と思いましたよ。
まぁこれは、わざとわかりにくくするように官僚サイドでネーミングしたんでしょうけど、それにしても悪ノリしすぎですよね。
あと、見逃してはならないのは、我々の日常生活における、インターネットの加速度的な普及ですかね。
いまやほとんど一家に一台パソコン、お子さんだってお婆ちゃんだってメールをキーボードでホイホイと打つ時代です。
ちょっと便利なウェブサイトを見たりソフトを利用したりしようと思ったら、英語のページにすぐ画面が切り替わっちゃったりしますし。
またスパイウェウアだウイニーだと恐ろしい時代ですから、ネットショッピングとかウイルスメール対策とかにおいて、英語のサイト説明なりメール文章なりをよんで自分で判断して、自衛しないといけないシーンも増えてきていますよね。
ということで、
日本人は、英語をある程度制度的に学んでいかざるを得ない環境にはなってきている、
と、やはり思わざるを得ません。
これは良し悪しの問題ではなくて、現実に生活を送っていくために多少の英語の読解が可能でないと、自らの生活情報の100%のコントロールをすることが、徐々に難しい流れに世の中がなりつつある、ということです。
これからの時代は英語が理解できないと、わが子の生活そのものが脅かされるおそれがある、という防衛本能が、母親たちを子供の英語学校入学手続へと駆り立てているのではないか?などと勘ぐってみたくもなるのですが。(まぁ、そこまででもなくて、単なる受験対策というレベルかもしれませんが…)
いずれにせよ、もはや美しい日本語だけに囲まれて一生を送るのは、不可能のようです。
美しい日本語もできれば学んだ上で、さらに英語もやんないといけないというシンドイ環境に、これからの長い人生を送らないといけない幼児や小中学生たちは置かれているわけで、ちょっと可愛そうな気もしてきます。