「英語で考える」とかは、気にしなくてよい。(1)
だってソレ、ホントに英語で考えているかどうか、わかりませんから。
なんとなく、本人がそう思い込んでいるだけの場合もあるんじゃないの?とすら、ワタクシなどは、ウスウス思っています。
この「英語で考える」式のアプローチ、古くは故・松本 亨先生あたりから連綿と受け継がれている英語学習の考え方ですが、恐れ多くも、ツネヒゴロ「そうか?ホントか?」と思っていますので、今回はそのあたりを、数回にわけて多少書いてみたいと思います。
というのも、「こんだけ英語の勉強をしているのに、自分はまだ英語で考えるなんて境地は、全然ムリだぁ、オレはもうダメだぁ!」などと(笑)、悩んでおられる学習者の方が、ひょっとしたらいるかもしれない…と、思ったもので。
大丈夫ですって。
別に「英語で考えねば」などと力まずとも、バックボーンがしっかりしていれば、それなりに英語は上達するし、英会話だってうまくなりますから、というエールをおくってみたいというのが、今回の趣旨です。
ということで、別に「英語で考える」ことができる使い手の方たちに、それをヤメロといいたいわけでもないですし、ましてやその理論否定をしているわけでもアリマセン。
ただ、数十年英語の勉強を続ける学習者の一人として、自分の体験に照らして、『たとえ「英語で考える」ことはできずとも、英語なり英会話なりでなんとかコミュニケートしていくことは、できるだろう』という、個人的な思いについて多少書きしるしておこう、と思いたっただけです。
では、本人もどういう方向に行くのかわからないまま(笑)、つれづれなるままに、シリーズ連載でいってみたいと思います。
そもそも、「日本語で考える」というときに、
・日本語を通じて先にアタマの中で日本語の文章を組みながら考えているケースと、
・そうでない、反射に近いケースで、口からでているケース、
の二通りがありますよね?
英語においても、これはまったく同じだと思うんですね。
だから、そもそもそれをひとくくりにして、「英語で考えましょう」などと、はしょったスローガンにしてアピールしてしまうのが、まず問題。
この場合、
「とりわけ、何らかの論理的な組み立てをしてそれを自分の意見・主張として発信する場合や、あるいは大なり小なり相手の論理的説得にかかったりする場合に、その根本の組み立て作業をアタマの中で行うときの使用言語としては、英語を選ぶべきか、日本語を選ぶべきか」
というのが、「英語で考える」というキャッチフレーズが、正しく問題提起したい方向だと思うのです。
ま、いちいちこんなに長く説明していたら、この「英語で考える」アプローチそのものが、こんなに深くは浸透しなかったでしょうけど(笑)。
日常会話などで、なにかを考え、それを口にだす瞬間は、言語的な組み立てを行うより先に、アタマの中でモヤっとしたイメージが先に走っていませんか?
少なくとも、ワタクシが話す場合はそうで、これは英語でも同じです。
たとえば、相手と会話していて「それは間違ってるよ」と言いたいときに、先に頭の中で「それは間違っているよ」という日本語がアタマの中にでてきて、それを「えぇと、この日本語文章を英文に置き換えなきゃ。”No, you're wrong."でいいかな」と変換して、口に出しているわけではないでしょう。
どうですか?
しかし、だからといってストレートに”No, you're wrong."と言えたところで、それも、必ずしも「英語で考えた結果として、相手の正誤判断をしている」わけでもないように、思うのです。
言った当人自身、「英語で考えた結果として、自分がそういったのかどうかがよくわからない」ケースは、確実にあると思うのですよ。
えー、長くなりましたので、また次回への続きとします。