「やったつもり」は、結局は「やっていない」と同じ。
英語・英会話の本などもこれまでいろいろとご紹介していますが、ワタクシは個人的には、買ってきたそれらの本の英文に、マーカーや赤線を引っぱったり、あるいは英単語のところにグルグルと丸をしたりするのが、とても好きです。
いわゆる、本をきれいに読むタイプではなく、汚して読んだような気になっているタイプに、属しています。
ですので、語学関係の本に限っては、ブックオフ行きとなる可能性は最初からゼロですし、よほど駄作と判断したものを除いて、これまで語学関係で買った参考書は、ずっと手元に置いてあります。
ワタクシの手元には、もう10年以上前の英会話本が、いまだにたくさんあります。
それら古い本を引っ張り出してみると、10年以上前のかすれて変色したマーカーの跡が、あちこちの英文に、いっぱい引かれたままになっています。
が、それらのチェックした英文や英単語・フレーズを、じゃあ完全にモノにしているか?となると、まったくそんなことは無く、「なんでオレは、こんな英文に線を引いたんだろう」「この線を引いてある熟語、今はじめて見たような…」というモノに、実にたびたび、出くわします。
潜在記憶的は、「見たおぼえはあるが、忘れた」くらいのレベルにはなんとかたどり着いてほしいところですが、線がひっぱってあるにもかかわらず、もうまったく、見たおぼえがなかったりする。
ま、本の最終ページに至るまでマーカーの線を引ききることに夢中になり、中身がアタマに入っていない、ということを、はからずも証明しているわけですが。
ま、それは置いておくとして、本日メッセージをひとつ出すとするならば、「やったつもり」は、結局は「やっていない」んだよ、ということですかね。
たとえば、英単語を20個おぼえる勉強をした。
これは、実際に「やった」わけです。
これは、仮にそのあと全部忘れてしまったとしても、無駄ではないし、ゼロではないと思う。
忘却曲線のカーブが最初の段階ではきついということですから、復習回数を増やすことで、そのカーブがなだらかになり、いつかは全部、ないしはほとんどおぼえてしまえる日がくる。
あとは、どれくらいの時間を投下したか、という問題になってくるわけです。
しかし、マーカーによる線引きに興じるワタクシのように、なんとなくやったような雰囲気作りを優先する「やったつもり」は、上の状況とは明らかに異なる。
これは結局、英語・英会話の実力向上という一点においては、「なにもやっていないのと同じ」、と考えるべきです。
この作業にあてる投下時間をいくら増やしたところで、ゼロにどんな巨大な数字をかけてもゼロ、ということです。
これは本を読むときだけでなく、語学の勉強全般に言えることだと思います。
英会話学校に行って、そこでできた友達とフリートークの時間いっぱい、日本語でオシャベリして帰ってきた。
ネイティブが廊下を行き来する英会話学校で1時間過ごし、非日本的雰囲気にタップリひたって、手帳のスケジュールにも「15:00- 英会話クラス」などと書き込んである。
「やったつもり」のありがちな、ひとつの例ですね。
だから、皆さんもいろいろな勉強のスタイルに拠っているでしょうけれども、そのやり方によって、本当にリアルに意味のあることを行っているのか、それとも今のこのやり方は、単に「やったつもり」にすぎないのではないか、ということを、時々チェックしてみてはいかがでしょう。
「やったつもり」は、いつかどこかで「本当にやる」という行為に、実際に移す必要がある。
ココロのどこかで、意識しておきたいところです。
うーん、これで終わっては、なんだか、ただ膨大に無駄な時間を使ってきたようで、自分が少しカワイソウですね(笑)。
ちょっとだけ、自己弁護しますか。
本にマーカーを引く作業そのものが、英語・英会話の実力向上そのものにもたらす意味合いは、確かにゼロだと思います。
ただし、本作業のウオーミングアップの環境づくりという気休めのもたらす効果は、少しくらいはあるかもしれませんね。
野球のピッチャーの、投球練習前のストレッチ程度の意味は、ひょっとしてあるかもしれません。
いくら入念にストレッチをやっても、投球そのものはうまくならないでしょう。
投げ込む練習をしないと、野球はうまくならない。
しかし、だからといってストレッチが、100%無意味ということにもならない。
たとえて言えば、そんなところかもしれません。
ワタクシは、おそらく今後とも、英語・英会話本にマーカーを引くこと自体は、死ぬまで止むことがないように思います(笑)。
人間、そう合理的な行動ばかりとれるつくりには、なっていないのですよ。
ということで今後のために(笑)、少しだけ言い訳をさせていただきました、ハイ。