(2)「適当・ほどほどな勉強」vs「突き詰めた勉強」
よく、「勉強は誰のためでもない、自分のためにやる」という言い方をしますが、この言葉の裏側には、「誰かに認められることをはげみとして自分がやる」、または「自分の勉強が最終的になんらかの形で社会とつながっている」無意識の意味合いが、はりついているように思われます。
人は本当の意味で、「自分だけのために」勉強をできるものではないんじゃないでしょうか?
ただ、相手を意識しすぎると、今度は英会話ひとつにしたって「流暢な英語で、自分の意思を完全に伝えられるように頑張って勉強しないと」と、だんだん他人の目線が気になりだし、肩に力が入ってくるようになります。
英語学習でこれが過度に進行すると、発音のわずかな違いや英単語の使い方、冠詞の使い方など、細かい部分へとついつい、目がいきがちになります。
その先に待っているのは、「自分の不安をすべてつぶさないと、口から英語がでてこない」という、悪しき完璧主義ではないでしょうか。
昨日の「ゲシュタルトの祈り」の詩にあるとおり、「あなたは私の期待に沿うためにこの世にいるのではない」のですから、アナタが自分自身に期待するレベルの英語をしゃべるのをきくために、目の前の話し相手が存在するわけではありません。
目の前にいる彼ないし彼女は、アナタとなんらかの意思疎通をはかるためにいるのであって、アナタの英語の流暢さをほめそやすためにいるわけではないのだ、ということを、まずは確認しておきたいところです。
そういう意味で、完璧主義のくびきから放たれた、「適当・ほどほどな勉強」を、止めずに長く続けることの効用を、あえて強調しておきたいと思うわけです。