「グロービッシュ(Globish)」に思うこと。
某オリエンタルな(笑)ビジネス週刊誌が、今週号で「非ネイティブの英語術」という特集を組んでいるので、目を通してみました。
そのなかで「グロービッシュ(Globish)」について大きくとりあげていましたが、皆さんは「グロービッシュ」ってご存知でしたか?
「わずか1500語あれば英語が話せる」をうたい文句に、「ビジネスのためのランゲージ・ツール」として英語を使うアプローチのようです。
グロービッシュ - Wikipedia
Globish.com
このグロービッシュ以前にも、ずいぶん昔から、「一定語数の英単語だけを使って、すべてを平易に説明する」的なアプローチがいくつかありますよね。
ベーシック英語とか、Longmanの辞書のように2,000語程度で説明するとか…。
スポンサーリンク
「英語は外国語だし、学ぶにしたって日本語と同じようにはいかない」というのは、もちろんあるでしょう。
英語圏に住んだり、配偶者がネイティブスピーカーで24時間英語主体というような例外的な環境を除けば、ふつうは読むのも聞くのも会話もみんな日本語ですから、なかなか英語のシャワーをいつも浴び続けるっていうわけにはいかない。
でもだからと言って、最初から少ない語数だけに絞ってマスターして、それですべてをまかないましょう!という方法を、英語学習に悩む日本人にとっての画期的な解決策のようにプッシュするのも、どうかと思うわけです。
ある程度こみいった内容を易しい言葉・平易な表現に置き換えるのは、けっこうな力量と技術が必要です。
グロービッシュはどちらかといえば、その習得に時間をかけるよりも、最初からそんなことを考えずやさしい表現だけで間に合わせましょう…というアプローチですね。
しかし「ムダの効用」という面もあると思うんです。
すぐには使わない・あるいはめったに使われない、ある意味でおぼえていてもムダな(?)英単語や表現も含めた蓄積が自分の頭のなかにあって、そのごった煮のなかから最適な表現を選んで取り出そうとする試みの連続が、英語力そのものをあげることにつながるのではないかと、ワタクシは考えています。
ビジネスの現場で使われることの少ない、宗教的背景やジョークなどの知識などもひっくるめてですが。
「ムダなのでやらないほうが効率的」ではなくて、「ムダに終わるかもしれないが、いつかまた目にしたり聞いたりするかもしれないので、とりあえずおぼえとこう」という考え方のほうを、支持するということです。
何が難しくてめったに使われない表現で、何がよく使われる平易な表現かを判断するモノサシを、自分なりに頭のなかでつくって磨いていくほうがよい。
会話において言葉を選びとる力の大切さは、英語も日本語も変わりませんが、どれくらいの語彙力をベースにその選択作業を行っているかで、会話の質などもある程度定まってくるのではないかと思います。
ビジネスの現場といってもいろいろですが、私的な関係が薄くどんな考え方をするかもよくわからない商談相手の気持ちを動かし、こちらに振り向かせようとするための武器となる「語彙のベース」を、最初から1,500語に限定してしまうという発想そのものが、戦う前から白旗を掲げているみたいで、弱々しく感じられてなりません。
あらかじめ人の手によって作成されたワードリストを頼っていると、現場で想定外の状況におちいったときに、応用がきかなくなりがちということもありますし。
だいたい、いつも似たような単語やフレーズを振り回していると、会話の中身自体ものっぺりとしてくるものですし、話している自分もなんとなく単調さを自覚するのみならず、聞く側もそれなりに退屈してくるものなのですよ。
エ、「話の中身で勝負」だって?
その心意気は結構ですが、ワタクシのこれまでの経験からするに、「自分の話を相手によく伝えたい、相手にわかってもらいたい」という熱情のある人ならば、それをもっともよく伝える表現をなんとか探しだそうとして、あれこれと言葉にこだわるものなんです。
手持ちの決まった単語からひろってなんとか間に合わせよう…と考えている時点で、それって本当はそれほど伝えたいことでもないんだろう、何がなんでも成約したいというほどには情熱のない商談なんだろうと、やはり思ってしまいますね。
もっと言うなら、お互いの意図が100%正しく汲み取れる会話って、英語であろうと日本語であろうと、あんまり続くと退屈に感じてきませんか?
内容でも表現でも、少しくらいわからないことが混じっている会話のほうが面白みがあると思うのって、ワタクシだけですかね。
わからないことを尋ね返してそこから会話がつながっていくこともあるだろうし、会話のときにわからなかったジョークをあとで調べてみるのも発見があってむしろ楽しいってことも、あると思うんですけど。
会話は相手を必要とするコミュニケーションの一形態ですから、難しい単語が文章のなかに入っていて意味がとれなくても、表情や身振り手振りその他をひっくるめれば、なんとなく相手が言いたいことはわかる、相手の気持が推し量れる…というのはよくあることです。
「とりあえず相手が怒っているらしいのはわかったが、あのとき使った××という単語ははじめて聞いた、あとで辞書をひいてみて××という意味だとわかった…」といったような経験はありませんか?
やさしい平易な表現を使ってその範囲でどうやって間に合わせるかに心を奪われていては、もしくはそういう技術にあまりに熟達してしまっては、そのような「未知のことを知って自身の一段の成長をはかりたい」という思いがだんだん鈍くなり、ついには失われてしまうのではないかとすら思うのですよ。
かりにグロービッシュに熟達したとして、自分が平易な英単語で伝えたいコンテンツをすべて言えたとしても、相手は自分の知らない表現を多く使って話を返してくるのがふつうでしょう。
こちらの都合にあわせて、グロービッシュの単語リストにある範囲内で会話を組み立ててくれるわけもなし(相手もグロービッシュの信奉者、というなら別ですが)。
だったら最初からそういうストレスを感じながら会話をすすめる状態そのものに慣れておくほうが、あとの応用もきいていいんじゃないでしょうか。
グロービッシュに熟達したら次のステージに行けばよい、みたいな主張もありますが、それなら最初っからわからない単語をいつも手持ちに抱えながら、勉強していくうちに少しづづ克服していくほうが、派生的メリットが多いと思うんですが。
実際の英会話・英語を使う現場ではいつも、グロービッシュ的考え方にはカケラも配慮してくれない人たちが、相手となるはずですし。
え、だからこそグロービッシュを普及しようとしているんだって?そりゃ失礼しました(笑)。
ある程度難しい単語は、知っていても使わないと忘れる。
めったに会話にでてこない、聴くチャンスもそうはないというなら、なおさらそうですよね。
でもだからといって、最初からやさしい単語だけをより抜いてその範囲で済ませましょうというアプローチには、どうしてもうなずけないのです。
忘れてはおぼえ、また忘れてはおぼえるプロセスのなかで、なぜかこの単語だけは拭いきれなく、頭の中にこびりついてしまっている、特におぼえていようと意識していないのに、なぜか忘れられなくなった…という単語が、こつこつ勉強を続けているうちにポツポツと積み重なってきます。
学習を続けていれば、必ずそういう単語が少しづつ増えてくる。
そしてそれが結構なボリュームに達したと振り返って感じるようになったときに、リスニングやリーディング、そして会話が一段楽にできるようになっている自分に気づく。
外国語学習にはこういうプロセスが必須で、これを遠ざけるアプローチは、むしろマイナスですらあると思うのです。
「この単語数だけおぼえれば会話に不自由しない」的アプローチは、外国語学習者にとって本質的に警戒すべき甘美な響きなのです。
冒頭のビジネス週刊誌では「オバマ大統領の演説だって、グロービッシュを使うとこんなにやさしく表現できて、しかも100%理解できます」という例も、掲げられていました。
これもはっきりいって、よけーなお世話だと思いますよ。
幾人もの言葉のプロが一語にいたるまで考えぬいて選んでるはずの、スピーチ原文の持つ雰囲気が無味乾燥なありきたりの文章に置き換わっていましたが、そうまでして意味を100%取ることが、そんなに大切なんでしょうかね?
いいじゃないですか、わからない単語がいくつかあったって。
なんだかところどころわからないけど、全体になんとなくいい表現であることはわかる、リズム感のいい文章のような気がする…というセンスを養う・カンを磨くことのほうが、長い目でみたときにずっと大事だと思うわけです。
外国語の学習なんだから、そもそも100%理解という状態が無いのがデフォルトなのは当然。
学習途上にある人が、わからないこと自体をそんなにイヤがっていったいどうするのよ…と、つい思うわけです。
そんなわけでワタクシは、「グロービッシュ的発想」は、外国語学習の方法論としては支持しません。
ただ、どうしても英語をある程度期間限定で使いこなさなくてはならない場合、たとえば数年の海外赴任とか、「2年以内に英語をマスターしなければ、どうなるかわかっているね君(コワ!)」と会社から厳命されているような場合などには、役に立つのかもしれませんね。
もともとビジネス用の言語として編み出されているらしいので、ある意味想定どおりなのかもしれませんが。
つまり「そのお仕事が終わったら、もう英語は不必要…」という人には、短期間でそれなりに効果のあがるアプローチかもしれません(確証はありませんが)。
とくに話す立場のときに、本人としてはペラペラ英語を使いこなしているような気にはなれそうです。
もっとも聞く相手が「お、この人は平易な言葉と表現を使いこなす達人だ!」と感心してくれるかどうかは、また別の話ですけどね。
ということで、ワタクシとしては、「決まった範囲だけでやりくりする技術」を身につけるよりは、「知らない単語や表現といつも共存する状態に耐える力」を身につけるほうをオススメしたいですね。
スポンサーリンク