「英語モードへの切り替え」「英語脳へのスイッチ」を、警戒する理由。
以前も似たようなテーマで書いたような気が強くしますが(笑)、ま、なるべくかぶらないように気をつけて書きます。
たとえば英会話の勉強をしていて、「あ~、英語がペラペラとしゃべれるようになりたいな…」などと思っている人はみな、しゃべりたい内容それ自体を、自分のなかにたくさん抱えている人なのでしょうか。
それとも普段はまったく無口な人でも、ひそかに同じように思っていたりするのでしょうか。
時々ふと、そんなことを思うことがあります。
ふだん無口な人は、日本語で口数が少ないのだから、英会話がうまくなったとしても、寡黙なままでいるのが自然体というか、それが本来あるべき姿のはず。
英語でしゃべっても、当然ほとんど単語の羅列というか、口数はやはり少ないはずだろう…などと、思うわけです。
じゃあ、なんのために苦労して英会話なんか勉強したの?と思われるかもしれませんが、無目的で単に勉強したいからするだけ、英単語帳を眺めているだけでなんか落ち着く…ということでも、全然OKですよね。
そういう人が果たしてどれくらいいるかは、別にしても。
たまに「英語を話すときは、頭のスイッチを英語モードに切り替えて、英語人格で話そう」的なことを言う人がいますが、それは好意的に見ても、自分自身錯覚を起こしているというか、勘違いしていることに気づいていないんじゃないか…と、思うわけです。
だいいち、異なる言語ごとにいちいち人格を切り替えろって、多重人格のススメか?と、ついツッコミたくなってしまいます。
日本人との間では「ふーん」とか「そうなの」としかふだん言わない人が、英語だと急にぺらぺらしゃべりだすのは、はたから見ていてもちょっとヘンというか、本人としても何かしら無理をしている状態なのは確かですよね…。
日本人同士だとなんとなく雰囲気やあうんの呼吸で伝わるところであっても、同じ内容を英語でしゃべる時は、きちんと説明する、わかるように話す。
内容として等価のものを、日本語でも英語でも過不足なく伝える。
もしそういう意味で「英語モードへの切り替え」と言っているなら、それは日本語の世界でも我々がごくふつうにやっていることなので、わざわざ言語間の切り替えとして強調することもないですよね。
「ハイ、元気にしてる?」「今日はどうしたの?」といった言葉のやりとりは英語脳や英語人格うんぬんは関係なくて、ほとんど条件反射の世界、反応スピードが速いか遅いかの世界ですよね。
これはまぁ、割と肌で納得してもらえると思うのですが。
たとえば、会社の親しい同僚には「あれ、どこまで進んでる?」ですませても、外の取引先や、何も知らないお客様に話すときには、「現在××という内容のプロジェクトが弊社で進行しておりまして…」的な説明へと、ごく自然に切り替えて話しますよね。
仲間内に共通のコードでは伝わらないと判断したら、相手がわかるよう適切な説明を加えたり、わかってもらえるようにかみ砕いて話す。
これは言語を問わず、誰もが無意識かつ、普通にやっていることです。
異文化圏の人に「どうしたら分かってもらえるか」と、話すときにいろいろ工夫することは、やはり「話す技術の優劣」に属する問題だと思うのです。
脳のモード切り替えとか、(英語)人格とかが出てくる話ではない。
たとえば欧米圏のビジネス慣習からして、こういう説明では受け入れられないだろう…と判断して、英語で話すときには説明の仕方をアレンジして、最終的に日本語の説明と同じコンテンツを伝える。
これは話す直前まではすべて、今日まで体得してきた日本語の世界で処理できることで、「英語で相手にアウトプットする段階で、技術的に優れた出力ができるかどうか」にかかってくると思うわけです。
欧米圏と日本の慣習上の違いなどは、アウトプットの前に日本語脳(ヘンな言葉ですね)で十分そしゃくして理解しているはずのことであって、なにも脳のスイッチや人格まで、別モードに切り替える必要などありません。
というか、普通のヒトに、そんなことが意識的に、できるものなんですかね。
不可能とは言わないまでも、英語脳や英語人格の獲得といったこと自体が、英語の勉強よりもはるかに難易度の高いタスクであるような気がするのですが…。
ワタクシは、「英語脳とか英語人格にスイッチする」といった考え方に対しては、本能的に警戒感を抱いています。
日本語でコミュニケーションをとるときに必要十分と思えるコンテンツを、英語でアウトプットするときにも伝わるよう主語や修飾もはっきりさせて、きちんと等価値で移植できれば、それに越したことはありませんよね。
しかし、時には技術的についていかなくて、まったくもってよけいな内容や、あるいは思ってもいないことまで、つい付け加えてしまうときがありました。
他の人はわかりませんが、少なくともワタクシはこれまで経験上、よくそういうことをやりがちであったように思います。
無駄なサービス精神を発揮していたという面もあるでしょうし、おぼえたばかりの単語やフレーズを使いたくて、ついよけいなことを言ってしまったり。
あるいは、思うように表現できない自分に内心あせって、必ずしも本心からそう思っていないことを、あたかも自分の中心的考えのように言ってしまう。
「そういつもI have no idea.ばかりじゃ、馬鹿にされるしな…」とか、頭の中で忙しく考えたりしながら(笑)。
そうすれば表面上は流ちょうにしゃべれるにせよ、そういうのはやっぱり、根本的にはおかしなことですよね。
外部に伝える自分というものがそこにはなく、偽あるいは空ろ(うつろ)になっているということなので。
それだったら、自分に責任が持てる範囲までしゃべって、「あとはうまく説明できない」とか、「これ以上は英語でうまく表現できない」とか言って終わってしまった方がまだ良いのではないだろうかと、思うようになりました。
「ミスしてもいいじゃないか。語学は練習がすべてだ、どんどん喋ろう。」というアプローチは、少なくとも自分自身のなかで(他人がどう思うか別にして)しゃべりたいことがはっきりしている場合にこそ有効だ、と思うのです。
英語でしゃべることを優先するあまりに、思ってもいないようなことをどんどん言葉にし、口に出してしまう。
それは警戒すべきリスクですし、またそういうリスクはごく普通に転がっているのではないかとも思います。
ワタクシの場合、英語で話していてうまく単語出てこなかったときや、会話のキャッチボールがうまくできずあせり出したときなどに、心の中でピポピポとひそかに警戒警報を発令し、知っているフレーズで軽々しく言葉をつながないように、内心グッと警戒したりしています。
なかなか難しいかなと思うのは、ふだんの会話でもよくあるように、「話しながらだんだんと自分の考えをまとめていく」ような人もいるということですね。
口に出してあれこれしゃべってるうちに、だんだんと自分の主張がまとまってくる…ということは、確かにあります。
まとまらない話の前半部分につき合う方は、いい迷惑かもしれませんが。こういうことは日本語であるなら、英語でだって当然あるでしょう。
そういう人たちが英会話を練習する場合、「とにかくしゃべることを優先しろ」的アプローチは、しゃべる本人としてはブレがないという点で、あながち間違ってないかもしれない。
しかしそれは万人にあてはまるアプローチではないと思いますし、とにかく英語をたくさん聞いてしゃべっていさえすれば、いつの間にか英語脳・英語人格というものができあがる…というわけでもないでしょう。
この考え方でいくと、万人に適した英会話の学習方法など、結局無いのかもしれませんね。
「”この学習法でうまくいく”は、しょせんは個別的・相対的な話に過ぎない」程度に、ゆるく考えておくべきでしょう。
初心者のうちは、普通はまず「とにかく失敗しても、気にせずにたくさん喋ろう。」というアプローチを、勧められる、あるいは強いられるはずです。
これが正しい一面を含んでいることまでは、否定しません。
しかし一方で、ただたくさんしゃべればよいというものでもない、いやむしろしゃべりすぎそれ自体を警戒すべきだという、ワタクシのような考え方もあります。
ある程度英語が達者になった後でもこんなことを考えているヤツもいる、ということをお伝えしたくて、本日はグダグダと書いてみました。