(4)外国人と話すとき、なぜキンチョーするのか?
「外国人との会話くらいで、プライドがどうこうなってしまうことなど、ワタシは全くない、そんな安っぽいプライドなどそもそも持ち合わせてはおらん!」と、お思いの方はいるでしょう。
この場合、プライドという単語を使うのが適切かは、自信がありませんが。
もっと細かく観察するなら、「外国人との会話」それ自体は、単なる触媒として作用するにすぎない、ものでしょう。
「自分がそこに至るまで積み重ねてきたものが、イメージどおり有効に機能しないこと、現実とイメージとの落差が大きかったこと、に対する失望感」を、自分の目の前にはっきり示されるというリスクに対しての恐れ、のようなものでないかと思えます。
現実の生活では、物事の習得プロセスにおいては、最終的な到達点のイメージを、自分なりに漠然とではあっても、無意識に描いているものです。
「××大学に合格できたらいいな」「××の面接で採用されたい」といった、願望に近い、比較的弱いイメージ。
(これを意識的に繰り返し、強烈に自分の脳裏に刻印していくやり方は、俗にいう「イメージ・トレーニング」になりますね。)
英語があまりできないと自認するヒトも、逆に、英語が多少はできると考えるヒトも、程度の差こそあれキンチョーしてしまうことが多いのは、いずれもこの「現時点における自分の英会話力の見立て」を、正しくイメージしていく作業を、突き詰めてやっていないことに、理由があるのではないでしょうか。
英語の初心者は、英語・英会話のトレーニングの絶対量が不足しているにもかかわらず、自分では結構勉強したつもりでいる。
その段階で漠然と、結構外国人との会話でイケテル自分を漠然とイメージしてしまう。
ところが現実の英会話ではゼンゼン言葉がでてこないので、ガックリしてしまう。
逆に、英語がある程度できる人は、かなり自分の英会話力に自信を持ってのぞんでいることもあって、「だいたいの状況・場面では、問題なく会話ができる」というイメージをもって、基本的にのぞんでしまう。
ところが、こういう一定の高い水準にある人たちは、一番理想的なイメージからはじめていくために、ミスをするたびに、ついつい減点法的に考えていってしまう。
理想の100点満点からスタートして、1点2点とマイナスが積み重なり、結構ダメージが積み重なったところで、やはりガックリしてしまう。
まるで、右端と左端からそれぞれ歩いてきて、ある地点で出会うかの如く、つまるところ、同じ思いに至るわけです。
「イメージと違う!もっと上手に英会話ができるはずだったのに!」と。