「英語で考える」とかは、気にしなくてよい。(3)
「英語で考える」アプローチに対してはむかう(笑)コラムも、三日目となりました。
えぇと、最初に何か考えたり反応する段階では「アタマの中のもやっとした感覚」からスタートするわけで、ここに言語が介在するというわけでもない。
ここを「英語で考える」ように、アタマの中をなんとか作り変えなさい、ということ自体が、そもそも無茶な注文ではないか?ということで、結局のところ「言葉」のフィルターを通じて外の世界に自分の意思を表していく作業は、つまるところアタマの中の一番最後の「出口」の段階において行われるのだ、というような話を、ここまでしてきています。
ふぅ。
たとえていえば…最後の「出口」とは、水道の蛇口部分にあたるものでしょう。
そこから流れでてくる「水・水量」は、英語自体の勉強量も含めて、自分がそれまでの人生で身につけてきたすべて、自分の中に蓄積され、自分が積み重ねてきたすべて、ということになるんじゃないでしょうか。
「アタマの中のもやっとした感じ」を、言語でうまく伝えられないということは、いわば最後の水道の蛇口部分が、なんらかのつまりを起こしているようなものなのかも、しれません。
近頃ブームの、「幼少期から英語を習わせる」という行為も、このタトエにならえば、「自分というダム」にチョロチョロとしか水が溜まっていないのに、水がでてくる末端の蛇口部分に、立派なろ過装置をセットしにかかるようなものかも、しれません。
きれいな水が、蛇口から一瞬チョロッと流れてきて、コップ一杯も溜まらずに、すぐに止まってしまう。
それよりは、多少水が汚れていようとも、まずは肝心のダムにせっせと水を貯めることが必要ではありませんか?ということになると思うのですが、いかがでしょう。
そしてこのダムに水を貯めることこそが、上で書いた「アタマの中のもやっとした感じ」を発生させるための、ミナモトになってくると思うんですが。
さて、明日くらいでこのテーマも、なんとか「まとめ」に入ってみたいと思います。