(3)「英語マニア」に、なってはいけない。
昨日からの続き、今日で最後です。
これまでは、「アイツ、英語で文章を書かしてみたら、そりゃあ立派なものを書くけど、しゃべりのほうはさっぱりなんだよな」とか、「英会話は上手だけど、英文で書いたものは、どうにもミスだらけだねぇ」といった言い回しは、私たち完璧主義型の日本人にとっては、どちらかといえば、批判的なニュアンス・文脈のもとで、語られていたように思います。
まるで、読み・書き・聞き・話すの4つが分離不可能な1セットで、どれも達者でなければ、外国語学習者にとってのいわば「勲章」ともなる「英語ができる」という評価を、与えてはならないかのような。
ワタクシがいいたいのは、このような言い回しは、その人の英語の力量を極めて前向きに評価した「最大限のほめ言葉」として社会的にも扱われるべきで、むしろ誇りに思うべきことではないの?と、いうことなのです。
英語圏に属さない我々日本人にとっては、4技能のうち一つでも二つでも、外国語学習者として抜きん出た技量を持つことだけで、すなわち「英語ができる」ことなのじゃないか、と。
4技能とも全部水準に達しないと英語ができたことにはならない、というある種の先入観。
これは、文部科学省の方針のもと、ワタクシたちが小・中・高と一貫して受けてきた学校の英語教育において刷り込まれてきた、いわば理想像だと思うのですが。
そしてそれだけに、この観念というかイメージから、英語学習者である自分自身を解放することは、なかなか簡単ではないように思います。
でもねぇ…。
だからといって、4技能すべて上手になろうとすることは、(1)でも書いたとおり、「英語マニア」への道を、もうまっしぐらに突き進む方向にいくわけですよ。
私たちの限られた人生からもう膨大な時間を使って、全体的にまんべんなく目配りして英語を勉強したあげくに、「どれもまぁ、ソコソコ」で終わる結果になるよりも、「話をさせたらペラペラ」「書かしたら素晴らしい」という風になりたい、と自分の内面で発想を転換して、到達目標を絞り込んで勉強するほうがずっとよい、と思うのです。
無理やり例えるなら、大リーグの松坂選手。
彼は、ピッチャーとしての評価を極限まで高めることで、「一流の野球選手」として世間からは認識されているし、自らを規定しているはずですよね?
彼のバッティングは、(おそらく)ピッチングほど期待されているわけではなく、大リーグでバッターとしては仮に全然ダメであっても、彼が「一流の野球選手」であることには、なんら疑問の余地はないわけです。(おそらく本人も、確実にそう思っていると思うのですが。)
英語というものの一部分の技量に秀でることについても、これと同じような考え方を、学ぶ側も、それに評価を与える日本の社会も、していくことができないかなぁ…と、思うわけであります。
言い換えれば、英語という広大な世界の中で、狭いながらも自分の絶対的な得意分野を確立していこうというアプローチのほうが、最終的には、得るもののずっと多いやり方になるはずだ、と、ワタクシは信じているのであります。