(3)『英語が使える日本人』への道のり
文部科学省の5年がかりの計画も、目標大幅未達に終わる気配で、プラン練り直しの状況に近い、という話を書いてきていますが。
まぁ、この記事を最初に読んだとき、その結果にも驚いたのですが、実は真っ先に頭をよぎった記憶は、「自分が中学校や高校で英語を教わったときの先生の姿」でした。
ワタクシが中学生や高校生だったときは、今日と違ってかなり先生の権威というものがいきておりまして。
鉄拳制裁もゼンゼン当たり前でしたし、英語の教科書の音読が悪ければ立ったままで何回でもやらされましたし、放課後の居残り特訓というか、補習なども日常茶飯事でした。
また、俗に生徒の間で「あの先生は英語ができる。なぜなら、発音が上手だから」などと、まことしやかに先生の英語力の優劣の格付けが流れていたりしたものです(なんの客観的根拠も無い、単なる印象点の類ですけれども)。
なので、そういう怖い英語担当の先生方の顔を、思わず順番に脳裏に思い浮かべて、「あぁ、あの当時はすごく英語ができるように見えた先生たちも、実はホントの英語力は意外とたいしたことがなかったんだろうなぁ、内心結構、ハッタリをかましていたんだろうなぁ。そういや、外国人と話してたところは、三年間で一回も見かけなかったしなぁ…」などと、思いだしてしまったわけです(笑)。
いや、自分もその先生たちを下手すると追い越す年齢になった今、決してお世話になった先生たちを軽く見てるわけではなくて、なんというか、感謝の念とともに、ある種のノスタルジィを感じてなつかしくそう思うわけですよ。
きっと、生徒から「万一自分が答えられないような英語の質問をされたらどうしよう」などと、内心冷や汗をかきながら授業をしてたんじゃないのかなぁ、と思うと、ちょっとおかしくなってしまうわけです。
それでも、その頃に比べると、現在の環境で英語を担当されている先生方のほうが、実力比較した場合はるかに上ではないかという気がします(当時教わった先生方には失礼ながら…)。
それでも、文科省が定める目標水準にはゼンゼン未達という状況ですから、日本国民レベルという点では、先生も生徒も、よほど気合を入れなおして勉強しなくてはならない、ということですね。