2007年09月28日
英語の上手な人にたずねるべきは、「勉強法」ではなく「学習の時間量」。
英語・英会話の勉強法は、世に星の数ほどあふれている感もありますが。
アマノジャクな性格も災いしてか、「こうしなければ、アナタの英語は十年たっても、決してうまくはなりません!」などと断定的に書かれた広告なんぞを見かけようものなら、ついつい反発したくなってしまいます。
確かに多くの日本人にとって、英語は外国語、異人さんの言葉ではありますが、お互い同じ生身の人間同士、言語機能面で問題無きかぎりは、みんなその国の言葉をしゃべって、人の中で日々を暮らしているわけです。
読み書きを習えなかった結果として、文字や文章が書けないケースはままあるにせよ、およそ人と人との交流のなかで育った人間が、成長の過程において相手の話を聞き、自分の意思を表明するための「会話」をすることができない、という例は、ついぞ聞いたことがない。
このことは、理屈のうえでは、「あらゆる人にとって言葉というものは、どんな方法をとろうとも、最終的には身につけることが原理的に可能」であることを、示しているはずです。
このブログでも、前から折にふれ書いていることではありますが、「どうやるか」のテクニック面よりは、「どれだけやったか」という時間投下量のほうが、本質的には大事な問題と、ワタクシは考えております。
日本語環境から離れアメリカで何年も暮らせば、必然的に英会話はうまくなってくるし、日本人と結婚して日本で暮らしている英米人も、日本語がうまくなってくる。
モンゴルからきて相撲部屋でかんづめになり稽古して、日本で相撲をとっている力士も、日本語がうまくなってくる。
上達における程度の差こそあれ、ある意味ではみんな、アタリマエの話です。
環境面でその言語圏にどっぷりつかるということは、すなわちその言語に対する接触時間、すなわち「時間投下量」が一挙に大きく増加することになるので。
だから本質をつきつめれば、英語・英会話上達のためのたっぷりとした時間をアナタが持っていて、それをすべて投下できるならば、どんなアプローチをとったところでたどりつく結果についてはたいして差がないのです。
「こうしなければ、うまくならない」という外国語学習法はその意味では存在しないし、学習への投下時間量をないがしろにして「たった×日で話せるようになる方法がある」式の広告だけに目をとられていると、英会話で商売する側の人たちを喜ばせるだけ。
アナタはさんざんおカネを使った挙句、あんまり嬉しくない結果に終わるのがオチなわけです。
ちまたの英語・英会話の上達ハウツーは、つまるところ、「学習効率をあげるテクニックを身につけることによって、手持ち時間の少なさをなんとかカバーしようとするための試みにすぎない」、とすら言えるでしょう…。