2008年03月17日
英語・英会話学習、いわゆる「完璧主義」を考える(2)。
前回、英語・英会話学習で完璧を期そうと思ったところで、しょせんその「完璧さ」は、「日本人がこれまで無意識下で刷り込まれてきた、英語・英会話に対する世間感覚のようなもの」との比較で、自分が漠然とイメージしている世界にすぎないのではないか、といったような話をしました。
そうなってしまうのも、やはり評価を「自分の外=他人、世間」に求めてしまう傾向が、私たちのなかに大きいからかもしれません。
普通は、英検やTOEICなどを受験し、わかりやすく到達基準がはっきり示されている「級」や「スコア」などによって評価してもらうことで、初めて自分の実力がどの程度のものなのか把握している人が、多いわけですから。
しかし一方で、英検一級を取ろうが、TOEICでフルスコアをマークしようが、英語・英会話をモノにしたという実感からはホド遠い…と感じている人(世間的にはおそらく「英語ができる人」とみなされているでしょうが)もまた、たくさんいるはずです。
つまり、こういった試験で高得点を得たとか、ネイティブとミーティングで丁々発止やり合ったとかいった事実(すなわち外部評価)をモノサシにして、自分の立ち位置を一度は確認しようとしたものの、結局それでは「本当の英語力」との距離感をはかることができないことを、はっきり体感したからではないかと思うのです。
「世間・周囲の評価」など、自分がどの程度英語をモノにしているかをはかるモノサシとしては、ホントに頼りにならないということが、内心でよくわかっている。
だから、もし彼らが「完璧な英語力」を目指していたとしたなら、その「完璧さ」の定義は、世間でいうところのものとはまったく異なる、独自の内面世界の形成であるかもしれません。
ワタクシが思うに、英語・英会話を学べば学ぶほど、自分の実力がはたしてどの程度のものなのか、自分でもよくわからなくなってきている…と感じている人は、意外にたくさんいるじゃないかと思います。