2007年11月25日
英語・英会話、「細部にこだわり、細部にこだわらない」姿勢。
英語の勉強に限ったことでもないのですが、個人的に好きなフレーズのひとつに「神々は細部に宿る」という言葉があります。
「英語・英会話をマスターする」という目標は、自分にとって、たとえていえば「どっしりそびえ立つ、樹齢ウン百年の大木」のようなイメージがあるんですね。
でも遠めにみてそびえ立っているそんな樹木も、近づいてよく目をこらすと、一枚一枚の葉が息づいている、見えない細胞の巨大な集合体なわけでして。
比ゆ的にいえば、自分の英語という樹木を形づくっている葉っぱや枝や根は、いわば英単語の一つ一つや英文フレーズの暗記、発音練習、日々のスピーキングやリスニングの練習、バックグラウンドとなる関連知識の吸収、といった、細々とした日々の学習に相当するわけです。
つまるところ、立派にそびえ立つ樹木を最後の最後に拝むためには、そういった細々とした面についての学習を続けることが欠かせないわけで。
だからこそこの「神々は細部に宿る」という言葉は、日々の忙しさや面倒くささにかまけて、つい細かいところをはしょってしまい、「まぁこのあたりでいいだろう」と適当なところで学習をやめてしまいたがる、自らに対しての戒めの言葉になっているのですが。
細かいところを詰めていく気持ちを途中で失ってしまうと、そこには神々が宿らない。
したがって他の国で使われる言葉を理解し使いこなすという、ある意味「神がかりな」(笑)パワーが自分の中に舞い降りてこないのではないか、と漠然と思っているわけです。
しかしまた一方で、ここがさじ加減というか、非常に難しいところだと思うのですが。
細かいところに過度にこだわってしまうと、今度は英語という巨大樹木の成長自体がじりじりと遅くなってきて、自分の中のモチベーションを保つのが、難しくなってきたりします。
ときどき樹木から数歩遠ざかってみて、「どれどれ、どこまで大きくなったかな」と木々の成長を確認する楽しみがないと、なんのために自分は英単語を一日数個ずつおぼえようとしているのか、語源のチェックをやっているのか、「レストランで使われる英会話フレーズ集」などというものに向き合っているのか(めったに行きもしないのに)が、あるときフッと、わからなくなる時がある。
そしてそう感じる瞬間がだんだん増えてくると、勉強していること自体、無意味な作業のように思えてきたりして、これは語学学習においてはキケンな状態になってきます…。